百合山羽公

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【『春園』】
 百合山羽公の俳人としての地位は、すでに戦前において確立されていた。水原秋桜子の句誌『馬酔木』の有力な同人の一人として、昭和十年、三十一歳で第一句集『春園』を刊行している。彼の戦後の活動は、昭和二十一年、磐田郡二俣町(現浜松市天竜区二俣町)に俳誌『あやめ』が創刊され、雑詠欄の選者として迎えられたときに始まる。この時、選者にはほかに久野仙雨がいた。羽公一家は、昭和二十年六月十八日の戦災で家を失い、引佐郡中川村(現浜松市北区細江町)の父親の生家で疎開生活を送っていた。昭和二十二年には、戦前からの『馬酔木』の盟友相生垣瓜人が『あやめ』に加わり選者となった。翌二十三年、水原秋桜子を二俣町に迎え瓜人と共に歓迎句会を開いている。
 ところで、昭和二十年代初期の百合山羽公・相生垣瓜人両人の俳句活動を伝える資料が残されている。資料の発見者は、長年俳句誌『海坂』誌上に瓜人句の鑑賞を連載している元浜松学院大学講師松平和久で、松平は日管(株)の社内で発行されているリーフレット『北窓閑話』(2010,7,1)に寄せた一文の中でこの資料の存在を報告している。貴重な新資料と思われるので、その詳細を、松平の文章をそのままここに引用することで紹介させていただく。文中の『なつめ三』は、相生垣瓜人を中心とした、流派不問の俳句研究会「棗会」が出していた冊子のようである。
 
【『故園句抄』 『秋扇帖』】
 今回出会った資料で、特に驚いたのは、百合山羽公、相生垣瓜人の孔版の私家版句集である。羽公のは『故園句抄』、瓜人のは『句集秋扇帖』、同じ装丁の姉妹句集である。横長に半分に切った藁半紙一〇枚を二つ折りにして重ね、粗い手漉き楮紙を裏表に加え、鳥の子紙で綴じる。表紙中央に、瓜人好みのレイアウトで、縦横四㎝強の淡い色の楮紙を貼り、さらに四角枠を描き、句集名を明朝体で記す。奥付はないが、収録の瓜人の句に『なつめ三』で詠句時を特定できるものがあり、句集制作は、昭和二十四年のはじめ、造本家瓜人の手によるといってよいと思うが、羽公句は、羽公自選だろう。
 『故園句抄』は、はじめに「春園抄」として第一句集『春園』より一七句、つぎに「春園以後」として四九句、さらに「昭和二十年六月十八日罹災以後の田舎住にて」詠んだ句を「故園抄」として一三三句、計一九九句を収める。第二句集『故園』は昭和三十一年の刊行だが、書名はこの頃にはすでに決まっていたことが分かる。
 『句集秋扇帖』には、昭和二十三年の句が正月・春・夏・秋・冬と五つに分けて計一五〇(一四六)句載る。ただ、秋の句二句が、夏の部にあり、選句と印刷とのあいだに、ある手違いがあったらしい。
 二人の全句集は平成十八年十二月、海坂俳句会編で、角川書店から出版されているが、孔版の『故園句抄』の一三四句、『秋扇帖』の全句は、『全句集』には未収録なので、新資料と考えられる。
 
【『海坂』】
 さて、昭和二十五年、『あやめ』は『海坂』と誌名を改められ、編集と発行が浜松市内で行われることとなった。また、雑詠欄は、百合山羽公選「海坂集」と相生垣瓜人選「帆集」の二本立てとなった。
 
【『故園』】
 二年後、浜松市内に戻り、昭和三十一年十一月、第二句集『故園』が刊行される。装丁相生垣瓜人。内容は三章に分けられ、①帰雁抄(百六十二句、昭和十六年頃~二十四年頃)、②鬼灯抄(百五十句、昭和二十五年頃~二十七年頃)、③海鳴抄(百七十五句、昭和二十八年頃~三十一年)、計四百八十七句を収める。①と②の大部分が疎開生活中の作品と見られ、そこから、この集名は付けられたと思われる。『故園』の背景については後記に詳しい。羽公は、疎開生活を次のように記している。
 
 この激変した生活環境と耐乏の月日が「故園」の句となつて長々とつづいたのである。
 農家の人達の生活が隣人の親しさで感じられ限りなく慰められた。句作三十五年の間恐らくはこれほど純粋に自然の美しさに接したときはない。恵まれた天機であつた。
 『故園』から四句を紹介する。
 
 土着してしまふはかなし曼珠沙華
 寒流として天龍も伏し流る
 年暮るゝ白衣楽師のギターの紐
 白鳥のごときダンサー火事を見て
 
 
【『寒雁』】
 昭和三十三年から、『海坂』誌上での羽公の随筆「椿西雑語」(後に「有玉閑語」となる)の連載が始まる。『寒雁』(昭和四十八年)以降の句集にまとめられる羽公の旺盛な句活動は、この後長く平成まで続けられることとなる。