相生垣瓜人

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【『小六月』 『微茫集』】
 第二章第九節第五項、山根七郎治のところで美術団体・三行舎の結成について触れ、相生垣瓜人がメンバーの一人であったことを述べた。ここでは瓜人の俳人としての活動を見てゆくことにする。『相生垣瓜人全句集』(平成十八年角川書店刊)巻末の年譜によれば、彼はすでに戦前から高浜虚子の『ホトトギス』への投句を経て、百合山羽公と共に水原秋桜子の『馬酔木』に所属し、有力な同人の一人として活躍していた。また、『微茫集』(昭和三十年刊)の後記によれば、瓜人には昭和十七年から数年間の句作の中断があり、この句集は戦後の句としては、昭和二十三年以後の作品を収めている。ただし、瓜人は羽公のところで述べたように、前年に磐田郡二俣町(現浜松市天竜区二俣町)の句誌『あやめ』(前出)に選者として迎えられているので、彼の戦後の活動は昭和二十二年に始まると見てよい。このころ、私家版の句集『秋扇帖』を作成していることは、百合山羽公のところで記した。昭和十七年以来、数年の中断があるとはいえ、この時期の瓜人の俳句への意欲には、並々ならぬものがあったことが想像される。昭和二十四年十一月には、評釈集『小六月』を刊行。これは、瓜人と交流のあった百合山羽公・平野袖村・平野北人など、浜松地方の俳人三十七名の約三百五十句を四季に分けて取り上げ、評釈を加えたもの。同二十五年、前記『あやめ』は『海坂』と改題され、編集と発行が浜松でなされるようになり、雑詠欄は瓜人と羽公の二人の選となっている。また、『海坂』の表紙及びカットは毎号瓜人の手によることとなった。こうして昭和三十年七月の『微茫集』(近藤書店発行)の刊行となる。これは四六判、総頁数百五十八頁。三句組み、四百三十四句を収める。装丁は瓜人本人で、また本人による挿絵二点を含む。瓜人の第一句集『微茫集』に続いて、前述の羽公の第二句集『故園』が刊行されたことにより、『海坂』誌では二句集にちなんで、昭和三十二年から誌友の年間賞として「故園賞」と「微茫賞」が設けられた。以後、昭和六十年に亡くなるまで、瓜人の俳人としての旺盛な活動が続けられる。