平野多賀治(小児科医、俳号袖村・青蓋人)の句集『袖村句抄』が刊行されたのは、昭和三十一年初秋のことである。これは、まことに簡素な句集である。扉に「袖村句抄 平野多賀治」とあるが、序跋なし、目次なし、頁の数字なし、奥付は最後の頁に一行「昭和三十一年初秋 浜松 青蓋書屋発行」とあるのみ。そして各頁には、何と一句が印刷されているのみである。扉の裏に「装幀 秋野不矩」とあって、表紙と裏表紙にツユクサと思われる花が、墨と薄墨で描かれ「袖村句抄」と毛筆で書かれている。簡素の極みと言ってよい。この冊子を発行した後、袖村が一冊を鎌倉の高浜虚子に贈ったところ礼状が届いた。それには次のようにあった。
「袖村句抄」拝受仕りました。きどらない、てらはない卒直なる態度の御出版と敬服致しました。御句も亦その如くすこぶる好感を持つて受取ることが出来ます。いゝ句集だと思ひます。御祝福申上げます。 鎌倉市原ノ台 高浜虚子
袖村は、この文を印刷して『袖村句抄』のブックカバーとした。
図3-76 『袖村句抄』
数えてみると、本文部分の頁数百三十九頁、ということは、百三十九句を収めているわけである。すべて定型俳句。春夏秋冬新年の順に配列されているが、各部の見出し詞書等一切なし。各部から一句ずつ引いておく。
室(へや)の内春めくとのみ思ひをり
往診を了へて牡丹の客となる
父の日や萩こぼれゐる石畳
冬草や老の力のまだ尽きず
久々に和服着流し医師の春
【『多賀治句集』】
平野の長男保(小児科医、俳号仲一)は、『多賀治句集』(昭和五十一年刊)の巻頭に「父と俳句」なる一文を寄せ、平野の句歴について次のように記している。
父の句歴は長い。 その足跡をしるした句誌も、ホトトギスに始まり自由律まで相当数にのぼる。
虚子を識り、其後大橋裸木と交わり、当時一介の放浪俳人であった山頭火に数日の宿を借す(ママ)などその交友範囲も広かった。