藤枝静男

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 浜松という地方都市に住み、眼科医を開業しつつ創作活動を続け、戦後の文壇において藤枝静男私小説に新生面を切り開いたのが藤枝静男(本名=勝見次郎)である。
 
【「路」】
 彼の処女作「路」が、文芸同人誌『近代文学』誌上に発表されたのは、昭和二十二年九月のことであった。『近代文学』は、昭和二十一年一月、平野謙・本多秋五・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・山室静・小田切秀雄の七名の同人によって創刊された文芸誌である。同人中の平野と本多は、藤枝の旧制八高(現名古屋大学)時代の同期生(藤枝は理科乙類、平野と本多は文科乙類)で、三人は寮生活を共にし、生涯の友として認め合う仲であった。彼らは八高在学中、藤枝の終生の師で、当時奈良に住んでいた志賀直哉を一緒に訪ねたこともある。藤枝は八高卒業後、千葉医大に進学し昭和十一年に卒業。昭和十七年、平塚市第二海軍火薬廠海軍共済組合病院眼科部長となり、昭和二十年八月十五日、そこで敗戦を迎える。占領軍によって病院と住宅が接収されたので、浜松市郊外西ケ崎の妻の実家に身を寄せ、家業の眼科診療を手伝っていた。この年、通信の絶えていた本多から『近代文学』発刊を知らされ、平野との連絡も取れた。翌二十一年、本多・平野と数年ぶりに再会し小説執筆を勧められていた。
 「路」発表当時、藤枝は三十九歳。この時、作者名として平野と本多の付けた藤枝静男が生涯のペンネームとなる。姓は出生地藤枝から、名前は旧制八高時代の親友北川静男の名前から取られている。「路」は、原稿用紙二十五枚程度の短編である。妻の入院している結核療養所を、週に二、三度、食料を持って訪れる作者と思われる男を主人公に、彼の目を通してとらえられた施設内の生活が一見軽症に見える一人の男(原田さん)に焦点を当てて描かれ、その男の死で終わっている。主人公の日常については全く触れられず、妻の描写もほとんど無い。季節は冬、十月の終わりから翌年二月末までの、約四カ月間の出来事である。作中重要な意味を持つのは、主人公が私設電車を降りて施設まで四十分ほど歩く、山中の坂道である。主人公の人生の象徴として読むことも出来る。題名はここから付けられたものであろう。作品の末尾は次のようになっている。
 
  裏門にかかる坂の中程をリヤカーが登りなやんでいる。私は追いついてそれを押しはじめた。荷物が三個の寝棺であることは、掛けむしろの端からすぐわかり、一つは原田さんのものであろうと思われた。挽子は「からでも重いもんだ」と云った。私達は坂をイナズマ形に登り、裏門につきそこで挽子は門衛に断りに寄った。私はスキー帽をぬぎ汗をふきながら遠くの方を見下ろしていた。冬枯れの天竜川の河原は、今暮れかかり、白く雪におおわれ、まん中あたりに細い黒い帯のように流れがあった。私達はまた出発し、私は原田さんに教わった路を、息を吐きながら車を押し押し登って行った。
 
 彼の年譜(『藤枝静男著作集』第六巻所収)の、昭和二十一年のところに、「妻智世子再び喀血、秋から約半年間天龍川畔の結核療養所に入院し人工気胸術を受ける」とある。「路」はその生活を私小説として作品化したものと見られる。後年、藤枝は平岡篤頼との対談の中で、この作品について次のように語っている(一九八〇年一月『早稲田文学』)。
 
  小説は『路』なんていうのはなんにも評判よくないですよ、同人の中では。しょうがないから出してくれたんですよ。もし、『近代文学』のカラーというものがあるとしたら、まったく反対ですからね。彼らが排撃した方法で書いてるんですから。
 
 『近代文学』のカラーとは反対の方法というのは、私小説の手法を指すが、藤枝は後年この手法を深め、新生面を切り開いてゆくことになる。
 
【『犬の血』】
 処女作発表後の彼の創作活動は目覚ましい。作品の数は必ずしも多くないが、『近代文学』誌上に完成度の高い作品を次々に発表し注目された。昭和三十二年、文藝春秋新社から発行された作品集『犬の血』には、デビュー以来十年間の次の七作が収められている。すべて『近代文学』誌上に発表されたものである。

図3-80 『犬の血』

 「路」(昭和二十二年九月)、「イペリット眼」(同二十四年三月)、「家族歴」(同二十四年十二月)、「龍の昇天と河童の墜落」(同二十五年八月)、「文平と卓と僕」(同二十八年一月)、「痩我慢の説」(同三十年十一月)、「犬の血」(同三十一年十二月)
 この内、「イペリット眼」・「痩我慢の説」・「犬の血」の三作が芥川賞候補となった。この後、藤枝は「凶徒津田三蔵」・「空気頭」・「欣求浄土」・「或る年の冬」・「或る年の夏」・「悲しいだけ」などの作品を、主として中央の文芸誌『群像』誌上に次々に発表し、各種の文学賞を受賞することになる。