鈴木三朝

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【法隆寺金堂壁画模写】
 終生浜松を愛し続けた日本画家・鈴木三朝(本名=朝松)は、三重県一志郡高茶屋村(現津市)出身。昭和三年以来毎年のように、再興された院展での入選を重ね、昭和十五年から十二年間にわたり、荒井寛方の助手として法隆寺金堂壁画模写事業に参加するなど、戦前においてすでに日本画家として一家を成していた。彼が、戦争のため疎開を余儀なくされ、浜名郡積志村西ケ崎(現浜松市東区西ケ崎町)に移り住んだのは昭和十九年三月のことである。一時故郷に戻ったこともあるが、昭和二十年からは、九十八歳で亡くなる平成九年まで、浜松を離れることはなかった。年譜によれば、彼は大正時代、俳句を通じて知り合った浜名郡積志村の俳人・画家・鈴木黄鶴を訪ねたことがあるというから、そのことが浜松移住と関係しているかもしれない。
 
【斑鳩の里】
 戦後の三朝の活動で最も注目されるのは、昭和十五年以来の法隆寺金堂壁画模写事業であった。自身、「なんといっても一番思い出深いのは、法隆寺の壁画の模写ですよ。それ以外にはない。」とまで言っている。荒井寛方の助手としての仕事であったが、昭和二十年四月の寛方の死後は、主任代理を務めていた。この事業は昭和二十四年一月の失火による壁画焼失によって途絶するが、彼は引き続き二年間にわたって、蓮弁模様の格天井の模写を行った。斑鳩の里は、彼の画業の生涯のテーマで、これは、十二年間にわたり法隆寺にかかわった体験がもとになっている。彼は戦後間もなく、浜松市内において個展を開いているが、そのほか昭和二十七年一月、浜松市立図書館において、武者小路実篤・鈴木三朝・原田濱人展が開催されているのが注目される。昭和二十八年には、この年始まった浜松市美術展覧会の審査員を、昭和三十三年まで務めた。院展内の足跡としては、昭和三十六年、この年から特待(特別待遇)制度が設けられ、藤井白映らと共に推挙され、日本画家として中央での地位は揺るぎないものとなった。昭和四十一年には、再興第五十一回院展に「斑鳩の月」を出品。以後、斑鳩をテーマに「斑鳩の里」(昭和五十二年)ほかの大作を次々に出品した。この間、浜松市美術館開館記念郷土現代作家展(昭和四十六年)に「斑鳩の月」、同美術館の浜松の現代美術展(昭和五十四年)には「斑鳩の里」を出品している。このほか平成二年、平野美術館において特別展鈴木三朝展、平成三年には浜松市美術館において、開館二十周年記念として鈴木三朝展が開催された。