能勢海旭

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 戦前から戦後にかけて、一貫して書道教育振興に力を注いだ書道家・能勢海旭(本名=時春)は、浜名郡和田村長鶴(現浜松市東区長鶴町)の出身である。大正十五年浜松師範学校(後の静大教育学部)を卒業後、昭和十一年母校に専任書道教官として迎えられ、昭和四十五年に退官するまでの三十余年間、静岡大学において書道の教員養成に尽力した。能勢自身の回顧録によれば、彼は師範学校を卒業の後、最初に奉職したのが相生小学校で、そこでの教え子たちとの巡り合いが、書の道に入るきっかけになったという。生徒たちから書き方を教えて欲しいと望まれ、これに応えるため自ら書を学ぶことを始めたと述べている。
 
【学書会 静岡県書道教育協会】
 書道教育の実践家として、彼はすでに戦前から着実な実績を残しているが、戦後の活躍も目覚ましい。まず昭和二十一年、県西部六会場巡回夏季講習会を開く。これは書道興隆、書道教育再建を期しての企画であった。翌二十二年、これを発展させて学書会を発足させ、書道雑誌『学書の友』を発刊する(昭和三十二年まで続く)。二十五年一月、静岡県書道教育協会を結成。同年には、全国大学書道学会を結成する。やがて、能勢の活動の舞台は国際的となり、全日本教育書道代表団顧問として中華民国を訪問した(昭和四十年)ほか、欧米十六ケ国招請全日本教育書道代表団副団長(昭和四十二年)、中華人民共和国親善静岡県書道連盟代表団顧問(昭和五十六年)を務める等の実績を残した。この間、浜松市美術展(昭和三十一年・三十二年)、浜松労働美術展(昭和五十年・五十五年・五十九年)の書道部門の審査員を務め、昭和五十二年には浜松市から市勢功労者表彰を受けている。昭和六十二年四月二十七日死去、享年八十歳。その生涯は、まさに書道教育一筋であったが、彼の書は丹羽海鶴・田代秋鶴・田中海庵を継承し、深い古典研究によって培われた品格の高いものであった。浜松市が、市制七十周年の記念事業として、賀茂真淵生誕の地に建立した翁顕彰の歌碑は、能勢の揮毫によるもので傑作の一つである。著書に『書道教育読本』・『学書基本帖』・『和漢対照書道史』がある。
 
【川嶋龍洲】
 能勢の指導を受けた一人に川嶋龍洲(本名=龍雄)がいる。川嶋は、長らく静岡県立浜松北高校の書道教諭を務め、静岡県高校書道教育研究会理事長、静岡県書道連盟常任理事などを歴任した。また、浜松労働美術展、静岡県教職員芸術祭の審査員を務めるなど幅の広い活動を見せた。