【浜松市芸術祭 浜松市美術展 演劇部門】
敗戦後、ちょうど十年目に当たる昭和三十年、浜松市では教育委員会社会教育課が中心となって、芸術の祭典として浜松市芸術祭が開催された。それまでも、ユネスコ協会による芸術祭が開かれていたが、戦後十年が経過し市として文化の振興に取り組もうとする機運が盛り上がってきたものである。催しとしては、美術・演劇・音楽・文学の四部門が柱で、すでに浜松市美術展として昭和二十八年より毎年開かれていた美術部門に、ほかの三部門が加えられたという形であった。まず、演劇部門について見ると、当時は市内における演劇活動が盛んで、新聞によると、演劇部門は、市内の青年団、職場、自立劇団の代表が出演して行われた。青年団は出場数が多く、各地区ごとに予選を行った上で、十団体によりコンクールを行い(十一月二十日、誠心ホール)、浜松市芸術祭演劇部門の発表会(十二月四日、市公会堂)には次の団体が出演した。
青年演劇…芳川青年会(深い疵)、新津青年会(明日を告げる鐘)、笠井青年会(むじな沢のはなし)
職場代表…国鉄浜松工場(今すこしだ待っていろ)
自立劇団…劇団からっかぜ(村の保守党)、劇団ひくまの(血漿)
【合唱祭 『浜松市民文芸』】
音楽部門では、合唱連盟(第四項参照)を主体とした合唱祭を開催(十一月五日)。新聞によると第一部が合唱、第二部が器楽で、浜松放送合唱団や職場、学校の人たちが参加、民謡やクラシックを楽しんだとある。これは合唱連盟としては第三回目の合唱祭であった。注目すべきは文学部門で、芸術祭を機に『浜松市民文芸』が発刊されている(第一項参照)。以上四本の柱に講演会、芸能祭(西浦田楽…水窪町、十二段舞楽…小国神社、ふくさ人形…庄内村)、写真コンクール等が加わって行事を盛り上げた。以後、浜松市芸術祭は毎年開催され今日に至っている。