【シネマスコープ】
トーキー、カラーと並んで、シネマスコープの登場は映画界の一つの革命とも言い得る。浜松における、シネマスコープ映画の最初の封切りは、昭和二十九年八月一日のことで、旭町にあった国際劇場においてであった(アメリカ映画「聖衣」)。同館のPR紙「シネマスコープ」が浜松市立中央図書館に残っているが、新方式について図面入りで微に入り細に入り懇切丁寧に解説し、「観客はその圧倒的な画面と立体音響による素晴らしい迫真力に打たれ、全く劇中の人となり切つてしまうのであります。」と説明している。こうして、映画人気はますます高まり、日本の映画人口は『日本映画五十年史』(塩田長和著)によれば、昭和三十三年に十一億二千七百万人に達し、史上一位を記録する(浜松では翌三十四年の五百五十三万人が最高)。同年十二月十七日付の『浜松民報』は、市内の映画館は開館予定を含めて二十三館であるとし、「まさに劇場ブームの飽和点に達するかに想われる」と報じている。
【映画ブーム 『虻蜂族』 高山定吉 内山恒雄】
このような映画ブームを背景に、浜松地域には幾つかの映画愛好家のグループが存在した。その一つが虻蜂会で、『虻蜂族』なる会誌を発行して会員の映画評などを載せている。中心メンバーは、国鉄浜松工場の高山定吉、『浜松民報』記者の内山恒雄、教員の天城良平・河村隆司、元東洋劇場営業部長の砂金裕久の五人であった。この虻蜂会が中心となって、映画文化向上のために、映画関係者や市内の文化人たちによって出来たのが浜松映画研究会である。
【『映画と私』】
映画ブームのなかで、市内の高校にも映画のクラブや愛好会が生まれた。虻蜂会会員の河村隆司が指導する浜松工業高校映画部では、部誌『映画と私』を発行し、同校の先輩で偉大な映画監督の木下恵介特集を組むなど、充実した活動を示し長く続いた。木下の代表作『二十四の瞳』の制作は昭和二十九年。九月十五日の封切りに先立つ九月十日、浜松松竹座において、監督臨席の下に特別有料試写会が開かれた。会場には、木下の浜松工業学校時代の恩師相生垣瓜人が招かれていて、木下は舞台から瓜人に対して感謝の言葉を述べた。
【ナトコ映写機】
さて、以上のような戦後の映画全盛期を迎えるまでの動きのほかにも、映画にかかわる活動があったことも見逃すことが出来ない。それは、アメリカ提供のナトコ映写機を使っての子供会・青年会・労働組合などによる映画会が盛んであったことである。『遠州新聞』昭和三十一年七月十一日付を見ると、三十一年ころそのような映画会が大変な人気で、浜松では年間五万人以上の人々が文化教育映画を見ていたこと、浜松市役所(教育委員会)には映写機が一台しかなく、いつも半月先まで予約で埋まっていたこと、操作には資格が必要で、講習を受けテストを受ける必要があったことなどを伝えている。