[民放JOVO(ラジオ静岡)]

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【電波三法の成立 静岡放送 ラジオ静岡】
 昭和二十年八月、太平洋戦争に敗れた日本は、以後長期にわたって連合国軍総司令部(GHQ)により管理支配されることになった。終戦直後、新聞や放送などの言論の民主化については、GHQの方針が必ずしも一貫していなかったが、昭和二十二年になって、ようやく民間放送の創設が認められることになった。昭和二十五年、国会でいわゆる電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が成立、初めて電波が民間に開放された。これにより、全国に民間放送開設出願の動きが起こったが、民間放送は新聞社がやるべきだとの声があり、動きの多くは新聞社が中心であった。『静岡放送二十年史』によれば、静岡県下では、静岡新聞が民間放送の設立に意欲的であったが他方に別の設立の動きもあり、様々な紆余曲折の後、昭和二十七年九月、静岡新聞系列の静岡放送の申請に対して予備免許が下りた。十月に試験電波発射、十月三十一日に郵政省東海電波監理局の落成検査に合格し、同日正式な免許が下りた。十一月一日午前五時三十分、静岡放送(呼称はラジオ静岡、呼出名称JOVO、周波数一四五〇キロサイクル、出力五〇〇ワット)は本放送を開始した。ラジオ静岡の開局に続いて、浜松にもラジオ局開設の機運が起こり、静岡放送の全額出資による浜松放送株式会社の免許申請が出された。こちらも紆余曲折を経て、昭和二十九年十二月一日静岡放送の中継局として開局した。呼出名称JOVO、周波数一二二〇キロサイクル、出力一〇〇ワットであった。なお、浜松地方に一〇〇ワットの出力では不十分なため、増力をたびたび申請し、昭和三十六年六月、静岡局と精密同一周波数放送を行う実用化試験局として、五〇〇ワットの増力許可が下りた。実用局となったのは、昭和四十年六月のことであった。