「文化不毛の地浜松」という言葉が、安易に使われることがある。そういう認識への反証を示すことは易しいが、その一つとして、全国に誇り得る郷土誌『土のいろ』の存在した事実を挙げることが出来る。このような長い歴史と輝かしい実績を持つ活動をこそ、真の郷土の文化と見なすべきであろう。
【飯尾哲爾】
戦争により中断されていた同誌が復刊されたのは、昭和三十年八月のことである。『土のいろ』の創刊は、遠く大正十三年一月にさかのぼる。発刊の趣旨・いきさつ等については、創刊号の「発刊の辞」と「編集後記」に詳しい(二つとも『新編史料編三』九文学 史料36所収)。それによれば、この壮大な事業が主宰者飯尾哲爾の郷土研究への確固たる信念に基づいて周到に準備され、彼の熱意と献身的な努力によってなされたものであることを知ることが出来る。また、『新編史料編四』 九文学 史料39所収、岡眞萩の「『土のいろ』十五年回顧」によれば、静岡県下において郷土研究熱が盛んになったのは、昭和五年ごろ以降のことのようであり、『土のいろ』の創刊は、浜松における郷土研究への取り組みが、断然ほかの地域に先んじていたことを示すものである。同誌は、昭和十五年九月号を最後に休刊となったが、それまでに発行された冊数は八十三冊(十七巻と二号)に及んでいる。なお、岡眞萩がいかなる人物であるか不明であるが、推測を加えれば、これは飯尾哲爾の筆名ではなかったかと思われる節があることを付け加えておく。
さて、同誌の復刊のいきさつについては、飯尾の「復刊の辞」に詳しい。戦争により休刊に追い込まれたいきさつについても、詳細に触れられていて参考になる。少し長くなるが引用する。
本誌が休刊した理由は、その筋の命令によつたのであつた。創刊と同時に内務大臣の出版許可を正式に受けて、毎号納本して居たため、発行停止命令をいち早く受けたわけである。一日私は警察署の特高課に呼ばれて、その命令を受けた。理由は用紙節約と云うのであつた。その後二、三年の間と云うものは、時々駐在所から発行の有無を質された。なかなかにきびしいものであつた。私としてはこんな理由で発行を中止するのは如何にも残念でたまらぬ。せめて百冊まで発行したいと念願して居つたので、その復刊の機の到来するのを待つて居た。今までに同人間で再三復刊の議が持ち上つたのであつたが、種々の事情で実施することが出来ず、今日に至つてしまつた。所が最近再び社会に郷土研究熱が盛になり、本誌の復刊を要望する第三の声が相当高まつて来て、我々としてもその要望に応じて立たなくてはならない羽目に立至つた。
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【『土のいろ集成』】
感情を抑え、淡々とした文章であるが休刊せざるを得なかった当時の悔しい思いが伝わってくる。復刊の背景には、戦後十年を経た昭和三十年ごろの、社会での郷土研究熱の高まりがあったようである。この後、『土のいろ』は、昭和四十四年十月まで続き、通巻百十四号をもって終刊となった。この郷土の偉大なる遺産とも言うべき『土のいろ』は、後に地元のひくまの出版の努力によって全巻が復刻され、『土のいろ集成』として刊行された(昭和五十五年~平成三年)。
図3-88 『土のいろ』復刊第一号