内田旭

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【『郷友』】
 遠州地方において、銀行家・教育家としての業績のほかに、郷土史家としても多くの業績を残した内田旭の主宰する郷友社の機関誌『郷友』が創刊されたのは、『土のいろ』の復刊と同じ昭和三十年のことである。郷友同人と署名のある「創刊の辞」は、「本誌は郷土を愛する心より生れた。」の一文で始まり、文中に次のような一節がある。
 
  郷土の生命を永遠ならしめることは、郷土を愛するものの理想である、この理想に近づく手段は、過去の真相を明かにすることである、一歩一歩この理想に近づく道を開くことが出来たならばまことに幸である、
 

図3-89 『郷友』第一号

 
【「秋夜随筆」 「全」 「杉浦国頭の生涯」】
 この創刊の辞は、以後第二号を除いて毎号の巻頭に「刊行の趣旨」として掲げられる。「編集後記」に、「数年来の機が漸く熟し、文化の日を期して茲に『郷友』誌を創刊する運びに至りました。」とある通り、奥付の発行日は昭和三十年十一月三日となっている。編集人は渥美静一、発行所は「浜松市野口町二一八 内田旭方 郷友社」。B5判、孔版印刷で袋綴じ、これは発行された全七冊に共通している。創刊号の論文のうち主なものは、内田旭の「浜松の藩学」と和達清夫(内田の甥、初代気象庁長官、日本学士院院長)の「桜ケ池のこと」の二つ。内田のものは、次の五章に分かれ雑誌全六十頁の約八割を占める。
 一、浜松の教育史 二、水野藩以前 三、水野藩の経諠館 四、井上藩の克明館 五、鶴舞藩の克明館
 「編集後記」によれば、同誌は季刊を目指したらしいが、おおよそ年に一~二冊の発行であった。どの号も大部分を内田の郷土研究の論文が占めていて、実質的には内田の個人誌の趣である。第五号が発行されたのは、昭和三十三年十一月二十五日。収載論文は、内田の「浜松の私学」と「読史漫録 曳馬古城と飯尾後室物語」の二つ。第五号の後、雑誌はしばらく途絶え、第六号が出たのは昭和三十七年五月十一日。表紙に「秋夜随筆 全」とあり、扉の二枚目に「謹んで内田旭大人の御霊前に捧ぐ 昭和三十七年五月十一日郷友社同人」とあるように、内田はこの年の三月二十三日に亡くなっている(享年八十五歳)。この号は、表紙にあるとおり、浜松出身で、京や江戸で歌人として活躍し隠口翁と呼ばれた柳瀬方塾の著書『秋夜随筆』を内田が校訂し、全文を一冊にまとめたものとなっている。これは随筆とはあるが歌論であり、方塾研究上の重要文献である。第七号が出たのは、昭和三十九年三月二十三日、表紙に「内田旭編杉浦国頭の生涯」とあり、扉の二枚目に「謹んで内田旭大人の御霊前に捧ぐ 昭和三十九年三月二十三日(三年祭)郷友社同人」とある。「あとがき」として「『杉浦国頭の生涯』上梓に際して」なる一文が添えられていて、それによると、この書は昭和十六年十二月に出版され絶版となっていたものの再版である(原著はB6判、当書はB5判)。冒頭に「浜松諏訪神社大祝(オホハフリ)杉浦国頭(クニアキラ)は駿遠三の三ヶ国に於ける国学の始祖である。この人があって浜松がこの地方に於ける国学の泉源となった。」とある通り、杉浦国頭は遠州国学の出発点である。内田の国学関連の著書には『浜松處士渡辺蒙庵に就て』・『村尾元融兄弟』・『杉浦国頭和歌会留書』などがあり、岡部譲・小山正と並んで遠江国学研究に大きな功績を残した。国学研究を含む、内田の郷土研究関係の著述は膨大な量に上るが、それらは後に、浜松史蹟調査顕彰会から『内田旭著作集』全三巻(岩崎鐵志編)として刊行された(平成五年~八年)。
 
【老松園文庫】
 『郷友』は第七号をもって、廃刊となったと見られる。なお、内田は野口町の屋敷内に老松が多いのにちなんで、老松園と号していたが、晩年、収集した郷土資料千三百余点を老松園文庫として浜松市立図書館に寄贈した。また、内田は昭和三十六年七月、市勢功労者として市から表彰を受けている。