【浜松ユネスコ学校】
第二章第九節第九項で見た通り、日本のユネスコ加入は昭和二十六年(一九五一)のことである。これに伴って、浜松では翌二十七年、それまでにあった浜松ユネスコ協力会が浜松ユネスコ協会となり、活発な活動が展開された。その一つに、昭和二十八年五月の浜松ユネスコ学校の開校がある。開校に当たって、「浜松ユネスコ学校要覧」というものが作られた。その中の「本校開設の趣旨と方針」に次のようにある。
「戦争は人々の心の中で始められるものであるから、人々の心の中に平和のとりでが築かれねばならない」というユネスコ憲章の精神に則り児童を対象として英語、美術、音楽等を通して児童の個性を伸ばし社会的協力精神を培う自由闊達な教育を行い、真に平和で民主的な人間形成を図るものです。
時間は、毎日曜日午後一時半から三時半まで。入学資格は「原則として小学校四、五、六年生、但し父兄はなるべく浜松ユネスコ協会々員となること」とある。学科は、必須科目としてお話と英語、選択科目として美術、音楽、舞踊、演劇が挙げられている。費用は「入会金五〇円、会費月五〇円、但し父兄は浜松ユネスコ協会会費月二〇円を納めること」とある。
【「ユネスコ子供の歌」】
昭和二十八年五月十九日、市公会堂において開校式が行われた。この時、「ユネスコ子供の歌」(菅沼五十一作詞、山田昌弘作曲)が発表されている。
ユネスコ子供の歌
菅沼五十一
ふみ ふみしめて それぞれに
へいわの はたじるし
たかく かかげて
こころ みつ めぐしこら
ゆけ ゆけ そらすみわたり
いちずなる つらぬく あしおと
一九五三年五月十九日発表
作曲 山田昌弘
【江見節男】
実質的な開始は昭和二十八年五月二十四日、会場は元城小学校で、市内の小学校六年生二百七十名が集まった。翌二十九年六月、二年目の学校が開校される。この年の会場は誠心高校で、生徒数は百三十名。学校は結局この二年のみで終わったが、映画会、科学実験(静大工学部にて)、「劇団たんぽぽ」鑑賞、ピクニック、講演会等、内容は多彩であった。第二年目に作られた「浜松ユネスコ学校の現況」なる文書が残されていて、それには講師を務めた江見節男(ユネスコ協会会長、静大工学部長)、村越一哲(ユネスコ協会理事)ら十四名の人々の名前が記されているが、ユネスコ学校は、これらの人々をはじめとする多くの人々の献身的な努力によって実現した事業であった。この事業は、後年のユネスコ学校科学教室(昭和三十三年開校)、ユネスコ学校英会話教室(昭和四十七年開校)へと引き継がれることとなる。なお、ユネスコ学校については、『浜松ユネスコ50年のあゆみ』に詳しい記述がある。