木下忠司は、兄恵介の四歳年下で、浜松一中(現浜松北高校)を卒業後、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)に進学。卒業後、音楽関係の仕事に携わっていたが、程なく応召、中国大陸に渡った。四年九カ月に及ぶ軍隊生活を経て、昭和二十年九月に復員。やがて上京し、兄の仕事を手伝うことになるが、木下映画の音楽を担当したのは昭和二十一年、木下の第六作目の「わが恋せし乙女」が最初である。忠司は以後、兄恵介のほとんどすべての映画の音楽を任せられることになる。彼には、優れた詩人的才能があり、「破れ太鼓」・「喜びも悲しみも幾歳月」をはじめ、多くの作品の主題歌の作詞と作曲を手掛け、木下映画の声価を高める上に大きく貢献した。