妹の楠田芳子は、市立浜松高等女学校(現浜松市立高校)を卒業後、東京の実践女子専門学校に入学、兄恵介の蒲田の家に同居する。昭和十九年、そこで知り合った松竹映画のカメラマン楠田浩之と結婚。楠田は、前年の木下のデビュー作「花咲く港」の撮影を担当した新進のカメラマンであった。芳子はもともと文学少女で、結婚後に書いたシナリオ作品が、兄恵介に認められたのをきっかけに、シナリオ作家の道を歩むこととなる。作品が初めて映画化されたのは、第三作目「この広い空のどこかに」(小林正樹監督)で、五作目の「夕やけ雲」(木下恵介監督)、六作目「涙」(川頭義郎監督)も映画化された。「涙」の川頭監督は、木下の愛弟子の一人であった。昭和三十一年封切りのこの作品は、浜松市を舞台とする恋愛ドラマで、主役は当時二十一歳の石浜朗、恋人役は若尾文子。この年の八月から約一カ月間、浜松市内でロケが行われた。弁護士で市の文化人の一人であった山根七郎治が僧侶役で出演するなど、地元の人々の協力があり浜松市民の関心が高かった。この年の九月二十六日付の『遠州新聞』の映画評欄で、内山恒雄はこの作品を高く評価し、末尾を次のように締めくくっている。
マンネリズムの大船映画の中にあっては、親しみ深い一篇となり、観後じーんと熱い題名そのものずばりの「涙」を意識させるなど、画面にみる浜松市内外の風物と相俟って、歓びに堪えない次第であったッ
図3-94 「涙」浜松ロケ
芳子は、映画のシナリオ作家としての活躍を見せた後、テレビドラマのシナリオを手掛けるようになり、その方面でも秀作を発表し好評を博した。芳子の夫の楠田浩之は、前述のように木下のデビュー作の撮影を担当し、以後、名作「二十四の瞳」を含め木下作品のほとんどすべての撮影を担当した。
木下恵介監督は、後世に残る幾多の傑作を含め生涯に四十九本の映画作品を制作した。それらは言うまでもなく木下の天才的な才能の所産であった。しかし、彼の周辺には木下学校あるいは木下組と呼ばれ、その仕事を支えた多くの人々のいたことも忘れてはならない。中でも弟の木下忠司、妹の楠田芳子、その夫の楠田浩之らの全面的な協力と支援のあったことを見逃すことは出来ない。