第二章第九節第八項に記したように、昭和二十四年の伊場遺跡の発掘調査により、学術的に貴重な資料が多く発見され、二千年前の弥生文化期の浜松地方の人々の生活の様子がかなり詳細に明らかとなった。さらに、当地方にはそれより千年以上も古い、縄文時代の後期から晩期(三千年から四千年前)にかけて営まれた蜆塚遺跡がある。佐鳴湖付近の台地にある、貝塚を伴った集落遺跡である。この遺跡については、すでに明治二十八年(一八九五)に帝国大学(現東京大学)の足立文太郎によって、また大正十一年(一九二二)には京都帝国大学(現京都大学)の清野謙次・浜田耕作の両博士によるなど、幾人かの学者によってしばしば発掘調査がなされ、縄文文化後期の貝塚として全国的にその名が知られていた。しかしながら、総合調査と言い得る調査は行われたことがなく、従って断片的な報告を除いては、報告書が公刊されたこともなかった。
【後藤守一 蜆塚遺跡調査団 『蜆塚遺跡その第一次発掘調査』】
昭和三十年になって、浜松市は明治大学の後藤守一教授を団長とする蜆塚遺跡調査団に、遺跡の本格的な発掘調査を委嘱した。第一次発掘調査は、この年の十二月下旬に行われ、先人の遺物や住居跡が次々に発掘された。昭和三十二年三月には、報告書として『蜆塚遺跡 その第一次発掘調査』がまとめられ公刊された。この報告の凡例において、後藤教授は「われわれが、世間によく通用している蜆塚貝塚の名をとらず、内容のあいまいな蜆塚遺跡としたのは、ここに発見されるであろう住居址をかなり重要のものとし、この地域における縄文文化人の生活のあとを明らかにしたいし、それがここの発掘・調査の生命であるとしているからである。」と述べている。また、「市長も見えた。市会議員も見えたというようなことは、ほかの地方の調査ではなかつたことである。」とも記し、市の関係者をはじめ学校関係者や婦人会の人々の応援があったことなど、浜松市民の熱心な支援のあったことへの感謝の言葉を記している。岩崎豊市長は序文を寄せ、「今後この遺跡の復元保存を図ると共に、出土品を陳列して、私達の祖先の生活が一目で理解出来るように『郷土博物館』の建設をも考えています。」と述べている。
発掘調査はその後、昭和三十一年・三十二年・三十三年と三回(第二次調査~第四次調査)にわたって行われ、発掘調査報告書も刊行されて蜆塚遺跡の集落の様子が明らかにされた。
【浜松市立郷土博物館蜆塚分館】
遺跡は昭和三十四年五月に国の史跡に指定され、復元家屋の建設や発掘された遺構の保存施設作り、遺跡見学のための史跡整備が進められていった。同三十五年七月には隣接地に出土品収蔵庫が建設され、同三十三年に再建の浜松城に設置された浜松市立郷土博物館の蜆塚分館となった。さらに、同三十九年五月には、収蔵庫に隣接して専用の陳列館が完成し、広く市民に公開された。
その後、新たな構想の下に博物館の建設が計画され、浜松城を本館とした浜松市立郷土博物館を廃し、新たに浜松市博物館が蜆塚遺跡に隣接して、南側の谷地に建設されたのは、昭和五十四年のことである。
図3-95 浜松市立郷土博物館蜆塚分館