『浜松市史』五は昭和三十四年から平成十六年までの四十六年間を対象にしている。この時期は「経済の時代」といっても過言ではないだろう。この時期を経済成長率(内閣府SNAサイトによる『社会実情データ図録』)の推移で見ると、ほぼ三つの時期に区分できる。第一期は、いわゆる高度成長期で年によっては十%を超える成長率を記録し、平均して九・一%で推移した。第二期は昭和四十九年から平成二年までの十七年間で、経済成長率は年平均四・二%で高度成長期の約半分の水準に低下した。いわゆる低成長の時代である。第三期は平成三年から同十六年までの十四年間で平均してほぼゼロ成長に近い年率〇・九%を推移し、いわゆる平成不況の時代である。
経済成長率のこのような変化の背景には体制、枠組みの揺らぎや構造的変化といった質的問題がある。第一期の高度成長は比較的安定した国際経済秩序(ブレトンウッズ体制など)や第三世界からの原油を含む一次産品の安価な供給、アメリカからの産業技術の導入、国内の豊富な労働力などによって達成された。それ故、ドルショックやオイルショックを契機に低成長期へ移行していったのは、その背景に構造的変化があったからにほかならない。低成長期は高度成長期に比べると成長率は低かったものの、他の先進国に比べると高い水準にあった。それは自動車・家電製品・事務機器などの加工組立工業が主導産業になり、それらの製品の輸出による輸出主導型成長によってもたらされた。しかし、この成長は日米貿易摩擦問題を引き起こし、その結果、プラザ合意による急激な円高や金融の自由化・国際化をもたらした。さらに円高対策として採られた金融緩和と海外からの資金流入は、国内に過剰流動性を生み出しバブル経済の発生と崩壊をもたらした。第三期の平成不況が長期化した背景には、バブル崩壊に伴う大量の不良債権処理の遅れとプラザ合意以降の円高傾向、冷戦体制崩壊に伴う経済のグローバル化などによる国内産業の空洞化があった。また、このような構造的変化の中で、高度成長を支えてきた終身雇用、年功序列型賃金、企業内組合、日本的金融システムなどの日本的経済システムが崩れ始め、雇用の流動化や賃金水準の低下が不況を長期化させていった。戦後の日本は経済的な豊かさを実現したものの、激しく変化する国際経済秩序や世界経済の激変に翻弄(ほんろう)されてきたとも言える。
産業都市浜松も、かかる構造的変化の過程でその姿を変えてきた。戦後、短期間に復興を成し遂げた地域産業は、戦前から集積してきた繊維工業や楽器産業に、新たに輸送機械工業が加わり、より厚みのある産業構造を形成した。低成長期においても地域産業をリードしてきた加工組立工業(輸送機械工業等を中心に)は地域経済を成長させてきた。しかし、昭和六十年以降の円高傾向とその後の経済のグローバル化の下で生産拠点の海外展開を徐々に強め、地域産業の空洞化をもたらしつつある。
以下、高度成長期、低成長期、平成不況期といった好不況の目まぐるしい変化の中で地域や浜松市民がそれらにどのように対応し、かつ新たなものを生み出していったかを『浜松市史』五を構成する分野ごとに概観することにしよう。
「政治・行政」の分野では八十万人都市にふさわしい都市づくりのための様々な施策が展開されている。高度成長期は、平山市政の五期二十年とほぼ重なるが、この間、工場誘致、都市計画街路の決定、教育施設の充実、総合福祉政策の施行、住居表示の実施、清掃行政の近代化、上下水道の建設と拡充、周辺町村との合併促進、さらに公害と基地対策を推進するとともに、市街化・同調整区域の設定、駅前整備計画、東海道本線の高架化事業等、新都市建設計画が進められた。
栗原市政の五期二十年は低成長期の昭和五十四年度に始まった。同市政は厳しい経済情勢の中、第二次浜松市総合計画に沿って、総合福祉都市の建設を目指した。発足した年度に東海道本線の高架化が完工し、同六十一年度からは第三次浜松市総合計画がスタート、「産業と文化の調和ある豊かな人間都市」を目指した。翌年から浜松地域テクノポリス建設事業を開始するとともに、大気汚染、佐鳴湖・浜名湖の水質汚濁など深刻化する公害対策に取り組んだ。そして、下水道と衛生工場の建設・ゴミ10%減量運動など清掃事業の推進、さらに美しい都市景観の育成にも力を入れた。また、二十一世紀に向けた浜松市の都市づくりの一環としてアクトシティの建設に取り組んだ。
北脇市政の二期八年は平成不況期の平成十一年度にスタートした。同市政は二十一世紀に向けた「技術と文化の世界都市・浜松」を目指した。市民生活の向上、環境への配慮、外国人市民との共生等の施策や、電線の地中化や緑の基本計画、東土地区画整理事業等の推進で、新しい街づくり・美しい都市環境の育成を実現し、また、浜名湖花博が開催された。平成十七年七月一日には浜松市など十二市町村が合併、新しい浜松市が誕生し、翌々年の四月一日に念願の政令指定都市となった。
「自衛隊・警察・消防・防災・治水」の分野では、地域における航空自衛隊や警察・消防の新たな動きが展開されている。航空自衛隊浜松基地には、航空教育集団司令部が置かれ、隊員教育の中枢基地となった。さらに、早期警戒管制機を有する警戒航空隊や高射教導隊などが配備された。また、航空自衛隊浜松広報館も設置された。
警察関係では、市中心部を管轄する警察署の二度の移転や新警察署の設置があった。交通事故対策や暴力団対策等が目立つところであった。平成に入ると、従来に比べて犯罪が急増してきたので、その対策に努めている。消防関係では、市の発展に伴い常備消防力の強化に努め、近代的装備(化学消防車やはしご消防車等)の整備を進めた。さらに火災予防の組織化も進んだ。また、新型救急車の導入など救急業務の近代化も図られた。
この四十六年間で浜松市域に多大な被害を与えた災害として、伊勢湾台風や七夕豪雨等があったが、最も心配されるのは東海地震で、それに伴う大津波襲来が予想され、市でも地域防災計画を立て、対策に努めている。防災体制の充実こそ被害を最小限に食い止める方法である。
「教育」の分野では生徒数の増加、進学率の上昇、高等教育の充実などに対する新たな対応があった。昭和三十年代半ばからは高度経済成長により人口が急増、それにつれて児童・生徒も増えていった。この頃から校舎は鉄筋コンクリートの建物に変わり、多くの学校で体育館やプールの建設が進んだ。これまであまり日の目を見なかった障害者への教育も充実したものになった。高校への進学率は昭和四十年代半ばには約八割にも及び、多くの高校が設立された。静岡大学工学部では時代の要請に応えて情報工学科などの新しい学科が増設される一方、静岡女子短期大学が浜松に設置され、大学、短大への進学者も増えていった。反面、青少年の非行問題が深刻となり、社会全体での健全育成の取り組みがなされた。昭和四十九年に開学した浜松医科大学は、浜松はもとより県内各地の医療水準の向上に大きな役割を果たした。昭和五十年代に入ると、小・中学校の校舎はユニークなものとなり、体力づくりや健康教育など特色のある教育活動が各校で行われた。高校では新しい科やコースが設けられ、浜松商業高校の選抜高校野球での全国優勝をはじめとして、吹奏楽や陸上競技などで優秀な成績を残した。社会教育の面では公民館や図書館の建設が進み、多くの人たちが生涯を通じて学び合う光景が見られるようになった。スポーツ施設も充実し、企業スポーツではヤマハや河合の活躍が目立った。専修学校や専門学校も花盛りとなり、多くの有能な人材が育った。平成の時代になると、日系ブラジル人の子供たちが学校に入学し始め、新たな課題となった。また、いじめや体罰などの多くの問題点が指摘されるようになった。私立高校では新しく男女共学に改編したり、学校名を変更する高校も出始め、中高一貫教育を取り入れるところも増えた。静岡大学には情報学部が新設され、さらに、静岡文化芸術大学、聖隷クリストファー看護大学などが開学、高等教育の充実が図られた。学校週五日制の実施と相まって、スポーツクラブや生涯学習の場が数多く設けられた。
「宗教・倫理」の分野では、市民社会と宗教との関係の観点から、大きく三点に分けて言及した。
一は『静岡新聞』紙上で紹介された神社・寺院・キリスト教団の施設の再建築・増築・補修について列挙した。いわゆるバブル経済の時期を挟んで宗教施設の増改築による刷新があった。
二は戦後の地域社会において浮遊する住民の宗教感情と教団側の日常に密着した働き掛けが相互に作用して、住民を捲き込むような活動が目立っている。これらは概して教団・宗派からの教化活動と括(くく)られるが、オウム真理教のように自分の救済が中心ではなく、広く地域住民の参加を募り親睦を深めようとしている。例えば仏教では伝統的な受戒会・開帳・坐禅会・写経法要や、人生を語る会・音楽会など、地域に密着したネットワーク・縁を結ぶ試みが行われた。また、生きとし生けるもの全てに向き合うという宗教本来の原点を実践する上で、キリスト教関係者の地球横断的な国際的支援活動は顕著である。他方、教義と儀礼を深化させ、死者の人柄を生者につなぎ強める結縁として、ある仏教寺院の如く法要に西洋楽器の演奏を導入するという斬新な手法を導入した住職らの試みもある。キリスト教会の場合は、西欧文化に根差している故に、教会堂=音楽堂という音響装置に配慮した設計思想に基づいて建築されているため、新聞紙上には音楽会開催の記事が多い。浜松市の音楽文化の日常化の一斑が窺(うかが)える。
三は主権在民・象徴天皇制・戦争放棄・基本的人権の尊重を定めた日本国憲法の下で、自治会活動における政教分離の原則が貫徹されるべきこと、この確認が市当局と自治会との間でなされたことである。これは浜松現代史における画期的な歴史的事実であり、その起承転結の記録化の意義は大である。
「産業・経済」の分野ではどのような動きが起きたか、この四十六年間の変化を見ることにしよう。高度成長期の地域産業は、明治時代から発展してきた繊維・楽器に、戦後新たに勃興したオートバイが加わり地域の三大産業と呼ばれるようになった。拡大する製造業に合わせて、市は中小企業の体質強化、設備の近代化、さらには産業公害の防止を兼ねて多くの工場団地や工場アパートを設置し、その集約化を図っていった。
次に、この期間に三大産業がどのように変容していったかを見ることにしよう。戦後のモノ不足を背景に、いち早く復興した繊維工業は高度成長期には先進国への輸出を拡大していった。しかし、日米繊維紛争、昭和四十六年のドルショックやその後の変動相場制への移行により、その国際競争力を急速に低下させていった。また、遠州綿織物産地の構造的欠陥である川中業種(織布・染色など)への特化も、繊維工業の後退に拍車をかけた。しかし、平成に入ると川中業種に特化された繊維工業を生活文化提案型産業へ脱皮させる狙いで、繊維業界はファッションの街づくりを推進していった。そのための事業として①ハママツコレクション、②浜松ゆかたまつり、③TEX・ハママツ、④ハママツファッションフェア、⑤浜松シティファッションコンペなどが開催され、川下業種への進出も行われていった。
楽器産業は、戦後の平和産業への移行に伴い息を吹き返し、日本楽器製造と河合楽器製作所を軸に多くの楽器メーカーが操業し、世界一の楽器産地を形成した。その後、ピアノやオルガンといった伝統的な楽器の生産量を減少させていったが、日本楽器製造と河合楽器製作所の二大メーカーは、その主力商品を電気・電子ピアノ、電子オルガン、電子キーボード、電気ギターなどの電気・電子楽器に移行させると同時に、事業の多角化を進めていった。他方、中小楽器メーカーは円高と新興工業国の攻勢で不振に拍車がかかり、高度成長期に乱立した楽器メーカーも、昭和五十年代から六十年代にかけて消えていく企業が増加した。
輸送機械工業では昭和二十年代の後半から三十年代の前半にかけて大小三十数社のオートバイメーカーが乱立、下請企業も含めると六百余の工場が誕生し、名実ともに〝オートバイの街・浜松〟になった。しかし、その後多くの中小メーカーは自然淘汰され、最終的にはホンダ、スズキ、ヤマハ発動機が残ることになった。三大メーカーの生産拡大と海外への輸出の伸長は常に新しい製品を生み出す技術開発力と国際レースで示された製品の優秀性に負うところが大きかった。特に、国際レースへの参戦は市場拡大にとって大きな意味を持った。浜松地域の産業をリードしてきた輸送機械工業は、昭和五十年代に入って幾つかの変化が表れてきた。第一に、変動相場制移行に伴う円高傾向の中で、ホンダ、スズキ、ヤマハ発動機といった三大メーカーと下請企業との利害が必ずしも一致しなくなってきた。第二に、オートバイ産業は昭和五十年代がピークで、次第に四輪車や船外機・ボート・雪上車などの生産にシフトし始めた。しかし、平成に入ると、さらに進む円高に経済のグローバル化が加わり、生産拠点の海外移転が進み、大手企業だけでなく中堅企業や中小企業でも海外進出を行うようになっていった。このような海外生産の進展が地域経済に、「生産量の減少」「雇用者数の減少」「設備投資機会の減少」といった影響を及ぼし、さらに長期化する不況も加わり産業都市浜松それ自体が変質してきた。
一方、昭和五十年代から六十年代に起きてきた高度情報技術は地域の産業基盤に大きな変化をもたらした。コンピュータに代表されるエレクトロニクス、これを機械に組み入れたメカトロニクス(機械の電子化)や産業用ロボットの普及などこれまでとは趣を異にしたイノベーションが、猛烈な勢いで地域の各産業の間で拡大していった。浜松市は、このような技術革新に対応するために浜松地域テクノポリス開発計画を打ち出し、昭和五十九年三月に国の指定を受けた。浜松は地方工業都市でありながら集積規模は大きく、質量共に充実し、開発型の中小企業もある程度の数に達していた。それ故に浜松はテクノポリスのモデルとして全国から注目された。また浜松ホトニクスを軸に発展してきた光産業も、その集積を高めてきた。
「交通・通信」の分野ではどのような動きがあったかを見ることにしよう。高度成長期における交通・通信分野での重大な出来事は、急速な経済発展とモータリゼーションの進展を背景として、東海道新幹線が営業を開始し、東名高速道路が開通したことである。一方、浜松市は、昭和三十七年にほぼ現在の道路計画の原型となる本格的な都市計画街路を決定し、これに基づいて道路の改良・舗装、新設を進めた。さらに、電話網の整備も進み、浜松市と全国主要都市とのダイヤル即時通話が実現した。なお、新幹線開通を機に東海道本線高架化事業の実施が決定され、その一環として貨物駅である西浜松駅が生まれた。
低成長期に採られた総需要抑制策は結果として公共事業費を削減した。また、経営が悪化した国鉄や、電電等の公共企業体が次々と民営化された。ただ、減量経営、ME化を背景に景気は急速に回復し、円高が進行した。こうしたなか、浜松市民の念願であった国道一号線のバイパスや東海道本線の高架化の完成が、当初計画よりも遅れたとはいえ、着実に実現していった。他方で、県下ワースト1と言われた交通事故の発生を抑えるため、引き続き交通規制を強化するとともに交通安全施設の充実を図った。なお、浜松市営バスの民間移管と廃止、二俣線の第三セクター方式への移管、国鉄佐久間線の建設中止などが相次いだ。
平成不況期には、IT革命や各種規制緩和が進展し、競争の促進とデジタル技術を利用した情報ネットワーク化、業務の効率化、省力化などが進んだ。また、地方やその中心市街地の活性化を目指した取り組みが行われた。こうしたなか浜松市は、市のシンボルとも言えるアクトシティの完成を受けて浜松駅東街区の整備を進めた。また、オムニバスタウン構想やテレトピア構想の指定を受けて新しい街づくりを進めるとともに、中心市街地活性化を目的に循環まちバス(く・る・る)の運行を開始した。
「社会」の分野における動きを見ることにしよう。経済の高度成長期、自動車や楽器のような大企業だけでなく織物工場などの中小企業も、賃金や労働時間などの労働条件の改善に努め、厚生施設もつくるようになった。この背景には好況による企業収益の増加と春闘などの労働運動の高まりがあった。国鉄浜松工場には労働組合の旗が掲げられ、スト決行中の風景もしばしば見られた。激しい物価上昇にもかかわらず賃上げは市民の購買意欲を高め、生活向上だけでなく景気の好循環にもつながっていった。
しかし、昭和四十年代末の石油危機の到来で〝消費は美徳〟の時代は終わる。この時期、活発化したのは地域婦人会の枠を脱皮し女性が主体となって社会問題に目を向け行政などへ提言し、さらに起業にも取り組む浜松婦人懇話会などの新たな女性運動であった。この動きはその後、家事・育児・介護分野への男性の参加、雇用に男女差を設けない、賃金の男女格差の是正など、男女共同参画運動に発展していった。
平成二年の入管法の改正で就労が合法化された日系南米人(ブラジル人やペルー人など)が浜松に多く住むようになり、その居住者数は全国一となった。自動車関連工場等の3K仕事(きつい・汚い・危険)の劣悪な労働環境と健康保険の仕組みが整わない状況で、多くの労災が発生した。この雇用は派遣会社を経由した低賃金の間接雇用であり、バブル崩壊後、不況になるとすぐに雇い止めをされ、社宅からも追い出される例もしばしばあった。こうした状況に対し、福祉・医療・労働運動等に関わる市民有志が立ち上げた「へるすの会」の活動や無料検診会、さらに個人での労働組合加入の呼び掛け等が行われた。浜松市は外国人集住都市会議を立ち上げ、関係都市と共に国政に多くの提言を行ってきた。同時に、定住化が進行し、地域自治会への参加も公営団地などで進んだが、日本人による差別への人権裁判も起こった。平成十年代以降、終身雇用の正規労働者から、間接雇用の非正規労働者へと、全国の多くの職場で雇用の軸足が大きく移動する中で、浜松の外国人雇用の問題点はその先取りでもあった。
「医療・厚生」の分野では、二つの特徴が挙げられよう。一つは、本書が対象とする前半期の医療環境を表現する文言として『広報はままつ』(昭和三十八年二月二十日号)上の評言、「市民医療の革命」が挙げられる。この号には浜松市内の十三の病院名とその各病床数とが挙げられている。特に昭和三十七年に開院した浜松市医師会中央病院をはじめ、浜松赤十字病院の改築、労災病院の誘致があり、市内には一般開業医の大幅な増加があったことが指摘されている。
右の浜松市医師会中央病院は市内二百二十軒の開業医で構成する浜松市医師会が管理運営するもので、その運営をオープンシステム(病診連携)といい、患者の発病から転帰まで一貫して診療するという開業医の職業倫理の実践である。しかし、戦後の医療関係の法整備が進み、健康保険制度の導入や医療技術の進展、診療分野の高度化・細分化とともに、開業医・勤務医の診療組織問題と財政基盤の問題に直面する。
この病診連携の理念を生かしつつ、右の問題点を止揚したものが県西部浜松医療センターの設立(公設民営・昭和四十八年四月開院)であり、浜松医科大学の開学(昭和四十九年六月)に伴う関連教育病院であった。これ以前、明治七年一月、浜松県立浜松病院が設立され医学校が付設されたが、明治九年の浜松・静岡両県の合併により、明治十三年、県費削減を理由に静岡県立浜松医学校は廃校。今、昭和五十五年三月、浜松医科大学第一回卒業生が誕生した。右の『広報はままつ』の評言「市民医療の革命」とは、浜松医学校廃校後百年目を迎え、市民と浜松市医師会に潜在してきたマグマ始動の謂(いい)である。
二つめの後半期を特徴付ける医療行為の制度設計には、ドクターヘリの創設が挙げられよう。その前段階は救命救急の為に医師の航空自衛隊ヘリコプター同乗に始まり、聖隷福祉事業団による救急医療ヘリコプターの会社設立(昭和五十九年)、三遠南信災害時相互応援協定に基づく消防防災ヘリの訓練(平成九年)などがある。さらに浜松救急医学研究会(会長大久保忠訓、平成十一年結成)は、平成十三年度の国のドクターヘリ導入促進事業の対象となり、活動拠点聖隷三方原病院が基地病院と指定されている。以後、ドクターヘリ出動要請の多さは地域による生命の格差を埋める医療従事者の姿を象徴している。しかし、ドクターヘリ運航に関して伊豆半島北部は米軍の管理空域を侵す可能性があり、国家行政上の問題点がある(矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル)。ドクターヘリの社会的活動については「救急ヘリ病院ネットワーク」(理事長國松孝次)からの資料提供を得て平成二十年時点までを展望した。平成二十年一月の東三河山間部の小児救命事例は國松理事長をして聖隷三方原病院ドクターヘリの金字塔と言わしめたのである。
「文学・文化」の分野では、戦後復興期を引き継ぎ着実に多彩な動きを見せると同時に、注目すべき新しい動きも幾つか見られた。特筆すべきは、第二章で取り上げた芥川賞作家吉田知子の登場である。浜松においては、引き続き藤枝静男の旺盛な創作活動が見られるが、昭和三十年代後半の、全国的な同人誌活動の高まりの中から、浜松という地方都市に『ゴム』というレベルの高い同人誌が創刊され全国的に存在感を示し、そこから一人の芥川賞作家を生み出したということの意味は大きい。
文化面では、何と言っても〝楽器の町〟と言われてきた浜松市に〝音楽のまちづくり〟の動きが始まったことが注目される。第三章で取り上げたが、昭和五十四年に開催された浜松市音楽祭がその幕開けと位置付けられ、浜松交響楽団の誕生、浜松音楽文化連盟の誕生、音楽鑑賞団体の結成などの実現を見た。これが第四章で取り上げた市民オペラ「カルメン」の上演、浜松国際ピアノコンクール、ハママツ・ジャズ・ウィーク、ショパンフェスティバル'94、こどもミュージカル、浜松国際ピアノアカデミー等の国際的規模を含む音楽イベントの開催、またワルシャワ市、ロチェスター市との音楽文化友好交流協定の締結へとつながっていった。このほか浜松市楽器博物館の開館、浜松市アクトシティ音楽院の開校もこの時期である。
こうして浜松市の目指す〝音楽のまちづくり〟は、その基礎がほぼ完成したと言ってよいと思われる。この基礎の上に、さらに音楽都市としてより望ましく成熟してゆくために、現在、市としての様々な努力がなされている。考えて見れば、世界の音楽の都と称される都市の音楽の歴史は、浜松市と比べれば桁違いに古いものがある。浜松市が、真の音楽都市を実現するためには、市民の一層の自覚と忍耐強い努力が期待されるところである。
以上、各分野にわたって、四十六年間の様々な動きや変化を見てきたが個々の出来事はそれ自身単独で存在しているのではない。共時的には他の様々な出来事と複雑に絡み合い、相互に作用し合い、通時的には歴史を常に変化させていくのである。それ故個々の出来事から普遍を読み取り、特殊な出来事から一般性を読み取ることによって初めて歴史から学ぶことができるのである。また、「歴史は鏡である」とよく言われる。過去は現在を映し出し、現在は未来を映し出すと。したがって、かつての浜松市民が何を悩み、何に苦しみ、どのような知恵を新たに生み出してきたかを深く知ることは、地域の現在と未来を理解する上で重要な意味を持つ。いずれにせよ激動する戦後史から、地域の歴史から、また浜松市民の行為から何を学び取っていくか、現在生きている私たちに課された問題であろう。