【岩崎豊 平山博三 平山市政】
戦後四回目の市長選が九カ月後に迫った昭和三十三年(一九五八)八月一日、岩崎豊浜松市長は平山博三助役と秘書課長を呼び、市長が一人で構想を練ったという部課長級九名を含む八十二名に上る人事異動案を示して、意見と了解を求めた。この突然の人事異動案をめぐり市長と助役、各部長らとの意見は真っ向から対立した。この人事異動案について市長は、人事の停滞を刷新し、市長の人事権を確立するものだとしたが、助役や部長らは助役や部長などの意見を聞き、定められた機関を通して行うべきもので、このやり方は市政を私的に考えており、納得できないというものであった。翌二日の緊急部長会ではこの人事異動案は引き下げるべきものと結論付けられ、岩崎市長はこれを撤回するに至った。岩崎市長はこれまで、オートレース場や駅前ビルの建設問題などで独断専行するなど、その都度物議を醸してきた。同年十一月になって地元選出の県議会議員の山下義彦らが岩崎市長を訪問し、三選出馬の断念を申し入れたが同市長はこの要請を断った。同年十二月に至って平山助役が辞表を提出、浜松市長選に立候補を表明した。これまで立候補を予定していた坂田啓造元市長は辞退、平山支持に回り、岩崎、平山の一騎討ちの様相を呈した。この後、無所属の中村四郎(社会党の県議、届出の時点で無所属に)と高林ガンジイ(無所属)が立候補した。こうして浜松市長選は岩崎市長を推す「明朗市政推進会」と平山元助役を推す「浜松市を愛する会」の間で、中傷・誹謗(ひぼう)が飛び交う激しい戦いとなり、〝泥沼選挙〟とまで言われた。中村も社会党を離れて保守票に食い込もうと動員に努めた。これらにより市民の関心は高く、四月三十日に行われた市長選挙の投票率は八十八・一%に上った。開票の結果、平山博三が岩崎豊に約八千二百票の差を付けて当選、昭和三十四年五月一日に第十四代浜松市長に就任した。同時に行われた浜松市議会議員選挙(定員四十四人)では新人二十人が当選、市議会に新風を吹き込むことになった。また、初めて共産党の議員が誕生した。