図2-2 新設・増設の工場
平山市長の公約である工場誘致は、昭和三十四年(一九五九)五月に高台地区の萩町に扶桑軽合金(株)浜松工場の誘致を実現(操業開始は翌年七月)し、さらに同三十四年七月には清水市三保に本社を持つ東海アセチレン(株)浜松工場(下石田町)の誘致(操業開始は翌年一月)に成功した。しかし、浜松市が誘致に乗り出していた本田技研工業(株)の新工場誘致は思うように進まず、鈴鹿市に決まった。これについて『静岡新聞』(昭和三十四年九月四日付)は「第一にあげられるのは目先のソロバン勘定だけに終始するキタナイ遠州人気質、折角の工場敷地候補地となつても、売買交渉に入ると極端な値の釣上げを試みる。…中略…これに拍車をかけているのが航空自衛隊浜松基地の存在。基地拡張ごとに三方原台地の赤ちやけた畑が坪当り二千円内外で買上げられる。…中略…つぎに不備なのは工場誘致条例がないこと。…中略…港湾がないことが静岡、清水方面におくれをとつている。」と報じていた。新聞が指摘した工場誘致条例は昭和三十五年四月に制定され、『広報はままつ』(昭和三十八年六月五日号)によれば「工場誘致条例のできたさる三十五年四月から現在までに、条例の適用をうけた工場は四工場、申請中のものは六工場、その他計画中のものを合わせると二十工場にのぼり…」と記し、中でも同三十六年九月に誘致が内定した近藤紡績の新工場に期待をかけていた。