浜松市は岩崎市政下の昭和二十七年(一九五二)九月十五日に『広報はままつ』(B5判、四頁)を発行、以来、月一回全世帯に市政広報紙として配布してきた。人口・世帯の増加に従い、発行部数を増やしてきたが、同三十一年(一九五六)一月五日発行の第四五号からタブロイド判二頁とし、同三十二年四月からそれまでの月一回の発行を毎月五日、二十日の二回とした。同三十四年(一九五九)七月の広報課発足により、同三十五年四月五日発行の第一三五号から四頁建てになった。広報紙以外にも昭和三十四年から十六ミリの市政ニュースを製作、また、超短波無線放送も行っていた。こうした浜松市の広報活動は全国的にも評価され、『広報はままつ』は昭和三十六年度全国広報コンクールで第四位、十六ミリ映画『市政ニュース』は第三位となり、同年十月に大阪市で開かれた広報全国大会で表彰された。この快挙は県下の都市では浜松市だけで、目覚ましい広報活動の成果を示した。ちなみに、同三十六年に行った世論調査の五百人からの回答によると『広報はままつ』を読んでいる市民は九十九%と予想以上の高い率を示していた。その後も『広報はままつ』は充実の度を増し、同四十年(一九六五)四月の第二六〇号からB5判八頁に増え、同四十四年四月には盲人のための点字版も発行された。栗原市政下の同五十四年(一九七九)九月頃には平均十頁にもなった。なお、昭和四十四年頃からは臨時号や増刊号が発行され、市政の様子がより詳しく分かるようになった。