[清掃公社の発足とし尿処理の近代化]

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【し尿処理 清掃公社】
 浜松市民のし尿処理は、戦後民間業者によって行われていたが、本来清掃業務は清掃法の主旨や市民の要望からも市が公社組織で行うのが建て前とされた。これにより、浜松市は清掃公社設立に向けて検討を重ねてきた結果、昭和四十四年(一九六九)四月一日に浜松市清掃公社を発足させた。発足当初の従業員は百八十人、バキューム車両六十台、大型運搬車十台を擁してし尿の処理に当たった。
 
【東部衛生工場】
 昭和四十年代当時、四十万浜松市民が一日に出すし尿の量は四百八十キロリットル(四百八十トン)で、これは普通のバキューム車二百八十台分という大量なものであったので、この処理をどうするかが市政の大きな問題となっていた。当時、各家庭から汲み取ったし尿は瓜内町に昭和三十七年八月完成の下水道中部終末処理場へ運んで処理していた。ここの一日の処理能力は四百トンであった(この頃農家人口の約八万人は自家処理可能)。しかし、昭和四十一年(一九六六)十月に下水道の一部が通水を開始、この処理場は本来下水処理を優先的に行うためのものであったため、し尿の処理が十分出来なくなってきた。このため市は一日二百トン(約十七万人分)を処理できる新施設の東部衛生工場(天竜川河畔の豊町)の建設を計画した。建設地の条件としては河川に近く、一日四千トン以上使える水があること、近くに民家が少ないことであった。昭和四十二年当時、市はこの問題について市民の理解を得ようと『広報はままつ』で次のように訴えていた。「このような施設は住民感情としてとかく敬遠しがちだからです。ところがし尿処理場は、すでに全国どこの都市にも地域にもあり、建設にあたって、あるいは建設後問題になったところはほとんどありません」。その後、東部衛生工場は、同四十五年十二月に完成した。