岩崎市政下の昭和二十七年(一九五二)一月に福地町自治会の代表者が市役所を訪れ、少量の雨でも床下浸水が起きるので下水道の工事を始めてもらいたいという陳情書を提出した。浜松市は同三十三年九月十七日に定例部長会で初めて下水道計画を協議、その結果、中心部の約二万五千戸を対象に下水道を設置すべく準備を始めた。そして、昭和三十四年三月十二日に下水道の第一期工事が建設省から認可された。昭和三十四年度から総工費十四億六千万円をかけ、十カ年計画で六排水区、ポンプ場二カ所、浅田・伝馬・元浜・寺島・船越の五幹線を設置し、市内中心部の排水を良くし、水洗便所の普及による生活・文化の向上を図ろうというものだった。同三十五年一月に浅田幹線が着工されたが、その後東海道新幹線工事の関係で延期になり、代わって元浜幹線を先に建設することになった。元浜幹線の工事は進み、昭和三十八年になるとこの幹線沿いの元浜排水区では台所の水は既に下水道を通して排水され、大雨時の出水もなくなった。その後、馬込ポンプ場の建設をめぐって地元自治会などが反対運動を展開し、事業遂行に暗影を投げ掛けたが、約一年後の昭和三十九年十月に円満に解決し、下水道事業はやっと軌道に乗った。そして、昭和四十一年(一九六六)十月一日、元浜排水区から瓜内終末処理場までの下水道本管がつながり、ここに浜松市始まって以来初めての下水道が通水を開始した。これにより元浜排水区では二千世帯の水洗便所化が可能となった。各家庭で水洗化をするには様々な工事に五万円から六万円もかかるので市はこの改造資金を一戸当たり五万円まで融資し、水洗化の普及を図った。下水道事業の幹線貫通修祓(しゅうふつ)式と通水式が挙行されたのは同年十一月十五日であった。これ以降も第二期、第三期と下水道事業の建設が続いた。
図2-5 第一期下水道図