[入野村と積志村の合併]

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【入野村 積志村 可美村】
 昭和三十年(一九五五)四月の市長選で再選を果たした岩崎市長は周辺町村との合併を進める方針を打ち出し、市議会も昭和三十一年五月に市町村合併特別委員会を設置し、入野・積志・可美三村と合併に向けた話し合いを持った。同三十二年二月十九日になって静岡県知事が浜松市と入野村の合併を勧告するに至り、同年二月二十三日に市村同時に議会で合併を決議し、同年三月三十一日をもって入野村の合併が実施された。これにより、浜松市の人口は二十八万三千九百八十四人となり、市長の目指す三十万大浜松市建設の構想が具体化され始めた。これに続いて同年三月三十一日に、同じく静岡県知事が浜松市と積志村・可美村の合併を勧告した。積志村は浜松市に隣接し、生活、文化、交通、産業などあらゆる面において緊密な関連があり合併の気運が熟していたが、知事の勧告により急速に話し合いが進んだ。同年六月に開かれた市議会定例会で合併を満場一致で可決、こうして昭和三十二年十月一日に積志村は浜松市に合併した。これにより浜松市の人口は三十万人を突破、県都静岡にあと一息というまでになった。ただ、可美村との合併問題は財政力の豊かな可美村側の反対により実現しなかった。
 平山市長就任後の昭和三十五年一月八日には市議会に合併研究特別委員会が設置され、大同合併に乗り出した。これは県の目標である西遠広域都市建設計画に焦点を合わせ、浜北・舞阪・雄踏・新居の四町及び篠原・庄内・湖東・可美の四村を対象としたもので、工場誘致や三方原用水の問題ではこれらの町村を含めた総合計画が必要になってきたからである。同三十五年一月以降、市の幹部や市議会の代表者が浜北町を訪れて合併に向けた話し合いを求めていた。