[湖東村の合併]

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【湖東村】
 『浜松市史』四 第三章で述べたように、浜名郡和地村と伊佐見村は浜松市への合併について村内がまとまらない状態であった。両村は住民の大半が農業を営み、地勢・交通上一体性を持ち、経済生活圏も有機的なつながりがあった。様々な開発計画が出るなかで、両村は合併による自治体の強化と財政の確立を図ろうと合併に乗り出し、昭和三十一年九月に至って合併促進協議会を開き、同年九月三十日に両村は合併し、浜名郡湖東村となった。新村名は公募し、その中より合併促進協議会で湖東・東庄内・浜西の三村名を選び、知事に一任したところ、湖東村と選定され、協議会で新村名が決定された。
 新村建設に向けて各種事業が進展する中、昭和三十五年三月になって湖東村の村長と議長が浜松市役所を訪れ、浜松市との合併に向けて合併する場合の要望書などを提出した。市はこれを受けて湖東村との合併に乗り出したが、同年四月の段階では湖東・庄内の二村を対象に合併準備を急ぐことになった。しかし、庄内村は合併に向けた村内の世論調整に手間取るとの観測から五月に至って湖東一村に絞り、合併に向けた話し合いを持った。六月に至り、湖東村は十月一日の合併の線で全村が一致、二十項目に上る要望事項を提出した。この要望事項は他の町村でもほぼ同じ事柄が出ているので、いくつか紹介してみたい。
 
  一 村役場関係職員を市職員として全員吸収する。
  一 村に市の出張所を設ける。
  一 統合中学校の校舎は防音工事をし、給食室、講堂の早期完成を図る。
  一 合併後の住民の税負担は過重にしない。
 
 合併に向けた協議がまとまり、同年六月二十日に浜松市議会と湖東村議会で十月一日に合併することが決議された。
 こうして、昭和三十一年(一九五六)九月三十日に旧和地・伊佐見の両村の合併で発足した湖東村は丸四年の村政に終止符を打つことになった。昭和三十五年十月一日、浜松市・湖東村の合併祝賀会が浜松市公会堂で開催された。合併の結果、浜松市の人口は三十三万五千人余で、県下最大の都市となり、市域も東は天竜川から西は浜名湖まで達した。