【篠原村】
湖東村との合併がほぼ決まった後の同年七月、浜松市は次の合併町村として知事から勧告の出ている篠原、雄踏、舞阪の三町村をはじめ、庄内村と新居町の五カ町村に対する交渉を再開した。このうち、篠原村は合併気運が低調であったが、部落懇談会の開催や村民が入野や湖東村を回って、浜松市との合併に対して取られた両地区の経過を打診するなど合併に向けて様々な活動がなされていった。八月には町村合併を促進してきた県の施策を受けて、浜松市と篠原村、雄踏町、舞阪町、新居町、庄内村との合併に向けた協議が持たれた。このうち、雄踏、舞阪、新居の三町村は浜名湖競艇から多額の収入があること、庄内村は村内で対立があることなどで、この時点での合併は篠原村のみに絞られることになった。村民の世論が浜松市への合併に落ち着き始めると、同村は合併に当たって要望条件を提示するに至った。そのうち主なものは、土地改良事業の継続、道路工事の推進、中学校校舎の鉄筋コンクリートでの建設等であった。市は同年十一月二十八日に市議会合併特別委員会を開き、同村の要望事項を受け入れることを決めた。これを受けて浜松市議会と篠原村議会は昭和三十六年二月二十七日に六月二十日を合併期日とする議案を可決した。こうして昭和三十六年六月二十日、浜名郡篠原村は浜松市に合併、人口は三十五万三千九百人余となった。この篠原村の合併は、地形的に見て隣接の可美村を飛び越してのものとなり、可美村は浜松市に取り囲まれた状態となった。この異様な姿を解消しようと合併の呼び掛けは続いたが、財政力豊かな可美村はこれに応ずることはなかった。