[庄内村の合併]

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【庄内村】
 昭和三十五年十月に湖東村が浜松市に合併したが、当初庄内村も同調するものと思われていた。しかし、当時の庄内村は庄内中学校の三教場(北庄内・南庄内・村櫛)の統合をめぐって、その建設地をどこにするかで混乱が続いていた。村長をはじめ多くの人たちは南庄内の内山地区(現在地)への建設を考えていたが、平松地区と白洲地区は統合中学校への通学は遠距離になるとして反対運動を起こし、平松地区の住民は昭和三十六年四月に、分村して浜松市への合併を決議するまでになった。その後、同年六月に設置場所に賛成した議員のリコール運動を起こし、投票にまで持ち込んだ。結果は賛成少数で解職には至らなかった。同三十七年二月になって白洲地区は村の方針を受け入れたが、平松地区は反対運動を激化させ、同年九月三日には同地区の中学校一・二年生の四十八人と小学生八十一人の登校を拒否させるまでになった。しかし、校舎の建設が進み、昭和三十八年一月の選挙で新村長が誕生してからようやく反対運動は終わりを告げた。同年八月頃から合併に向けた協議が本格化、同三十九年十一月二十一日になって庄内村は市への要望事項を提示した。その中には浜名湖を渡る村櫛・弁天島間、白洲・古人見間の架橋、東名高速道路舘山寺ICの設置、北庄内小学校の全面改築、市の観光課分室・消防分遣所の設置など二十項目に及んだ。そして、昭和四十年三月には合併交渉が妥結、同月九日に浜松市と庄内村の両議会でともに合併を議決、七月一日の合併が決まった。当初は合併特例法により庄内村の人口から勘案して市議会議員二名の選出を予定していたが、村内の意向が選挙を好まない大勢であったため、湖東・篠原両村合併時同様に、市議の任期が終わるまで行政調査委員制度によって村内の要望を市政に反映させる方針を取った。この行政調査委員には、村議二十一人と山崎村長を含めた二十二人が任命された。浜名郡庄内村は昭和四十年六月三十日に解村式を行い、同三十年の発足以来十年間に及んだ村政に終止符を打ち、翌七月一日に浜松市に合併した。『広報はままつ』(昭和四十年三月二十日号)は庄内村の合併に際し、「遠州随一をほこる観光地『舘山寺』の開発はめざましく、年間二百万人といわれる観光客…、全国に名高い『庄内白菜』や花き、柑きつの栽培、沿岸百五十㌶にのぼる『うなぎ』の養殖、小規模ながら織布産業もあって、なかなか活気をおびている村です。」と記している。この庄内村の合併により浜松市の人口は三十九万五千三百人余となった。