[光化学スモッグの発生とその対策]

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【光化学スモッグ】
 日本で初めて光化学スモッグによる被害が出たのは昭和四十五年七月十八日、東京の環七通り近くの学校の生徒が体育の授業を受けている時であった。浜松市でこれが初めて起こったのは同四十八年六月三十日(土曜日)の午後、松城町の中部中学校と向宿町の浜松女子商業高校のグラウンドでクラブ活動をしていた生徒合わせて二百六十人が目がチカチカしたり、のどに痛みを訴えた。同日は浜松だけでなく、県内各地でもこのような被害が続出、七月二日になって県公害防止センターはこれが県内初の光化学スモッグであると断定、浜松市の被害者はその後の調査で千五十人に上ることが分かった。また、ネギ・トマト・イネなども変色し、枯れたりするなど大きな被害(水稲約千六百五十六ヘクタール、ネギ四十ヘクタールなど)が出たことも判明した。これを受けて浜松市では七日に関係各機関の代表者を集めてオキシダント緊急対策打ち合わせ会を開催、発生時の連絡体制や監視体制の強化、市民へのPR方法などを協議した。監視体制については土曜日の午後や日曜・祝日などの勤務時間外でも雨の日を除いて市の公害課の職員が出勤してオキシダント測定器を監視して、測候所との連絡を密にすることを決めた。この対策打ち合わせ会が開かれた三日後の七月十日午後二時十五分、静岡県は浜松市・浜北市・可美村に対して初めて光化学スモッグ注意報を発令し、同地域の重油燃料使用の二十一工場に対し二十%の燃料削減を要請するとともに、各学校に対しては戸外での運動を中止するように指示した。翌十一日、市は一時間当たりの総排出ガス量が一万立方メートルを超える市内の工場の代表者を集めて緊急時の対策などで協力を要請、連絡体制についても話し合いを持った。連絡体制の迅速化のために、市は業種別に四つのブロックを設けて、各ブロックに幹事社を置いて連絡情報を流すようにした。
 
【オキシダント】
 昭和五十年(一九七五)七月十五日、市役所に設置されていたオキシダント計の表示が光化学スモッグ注意報発令に達しない濃度であったが、浜松商業高校、東部中学校、与進小学校などのグラウンドで運動の練習やクラブ活動をしていた児童・生徒三千四百余人がせき込んだり、のどの痛み、目がチカチカするなどの症状を訴えた。これだけ大量の被害が注意報発令の基準値(〇・一五PPM)以内のオキシダント濃度で出たことに市の公害課はショックを受けた。この対策として市はこれまで市役所と北部公民館(葵町)にだけあったオキシダント計を将来は七観測地点に設置するように努力するとし、昭和五十四年度には七カ所で測定するようになった。
 また、昭和五十一年度からは前年の教訓を基に、早め早めの警戒体制を取るように努め、一時間値が〇・一四PPMでオキシダント予報を出すことにし、その連絡先は学校や幼稚園はもとより、体育館、動物園、医師会など百を超える機関に上った。この後、硫黄分の少ない重油の普及や自動車の排ガス規制によりオキシダント濃度は次第に下がり、昭和五十一年度から同五十六年度まで予報や注意報は発令されたものの被害者ゼロが続いた。