[基地対策事業と航空機事故]

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【浜松市基地対策協議会】
 米ソの対立が進む中、昭和三十二年(一九五七)に防衛庁は次期戦闘機の導入のための調査団をアメリカに派遣した。マッハ2クラスの速度、そして最大上昇限度、戦闘行動範囲などで日本の希望する条件にあった戦闘機を選ぶためであった。選定には紆余(うよ)曲折があったが、最終的にはロッキード社の超音速ジェット戦闘機F104に決定、昭和三十六年から米国で生産、以後国内で生産されることになった。このF104は超音速などのためその騒音が問題となった。その戦闘機が浜松基地にも配備されることが分かると、浜松市はその騒音対策に乗り出した。これまで不統一であった基地対策を一本化し、防衛庁との折衝を行うために昭和三十七年二月十二日に浜松市基地対策協議会を発足させた。この会は浜松市、市議会、商工会議所、基地周辺の七カ町代表を含め二十人の委員で構成され、平山市長が会長を務めた。そして、エンジンテストの騒音対策、外周道路の舗装、汚水対策、夜間飛行の中止など様々な問題に取り組むことになった。
 浜松基地に初めてF104が入ったのは同年五月九日であった。このF104は浜松基地では飛行訓練はせず、技術教育や整備教育に使うものではあったが、エンジンテストでは激しい騒音が心配されていた。浜松基地でF104のサイレンサー(固定消音装置)の性能試験が行われたのは同年五月十三日、サイレンサーから五百メートル離れた地点では最高七十フォーン、最低は五十五フォーンで、予期以上の消音(騒音防止)効果が認められた。浜松基地には昭和三十八年までに五機が導入された。
 昭和四十四年(一九六九)二月八日、航空自衛隊小松基地所属のF104が落雷を受けて金沢市の民家に墜落、住民四名が死亡、十七戸が全焼する事故が発生した。これを受けて浜松市基地対策協議会は同月十二日に浜松北・南の両基地司令に安全飛行の申し入れを行った。この中で、①定められた経路以外の市街地の低空飛行はしない、②原則として演習は海上で行う、③早朝、夜間における飛行は原則として行わないなどを要望している。これより先の二月十日には社会党浜松総支部、共産党静岡県西部地区委員会、遠州地方労働組合会議などの革新系五団体は基地に安全飛行を要望、市に対しても低空飛行や基地拡張には反対することを申し入れた。また、市内中心部では基地撤去などを訴えるビラを市民に配った。
 昭和四十七年(一九七二)二月九日、航空自衛隊浜松北基地第一航空団所属のT33ジェット練習機が市内平松町の水田に墜落、一人が死亡する事故が発生した。これを受けて浜松市基地対策協議会は同月十日に二度とこのような事故がないようにと安全飛行の確立についての要望書を浜松北基地の司令に手渡した。