戦災復興事業

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【防火高層商店街 都市改造事業】
昭和二十一年から始まった戦災復興都市区画整理事業は当初、馬込川以西の中央部八百九十二万平方メートル(二百七十万坪)に及ぶ広大な計画が立てられたが、該当する住民らの反対により、整理面積を百八十四万平方メートル(約五十五万坪)に縮小、工区も六工区の予定が中央・駅南・和地山の三工区のみとなった。三工区のうち一番工事がはかどっていたのは和地山工区(第三工区)で、昭和三十五年四月の段階で九十九%の工事を終え、あと少しの街路工事で完工となるまでになった。中央工区(第一工区)も約八十%が終わり、あとは板屋町西側、鍛冶町北側、伝馬町角など二百二十二戸の移転が必要であった。鍛冶町通りでは伝馬町の四つ角から北側一帯約二百メートルにわたって鉄筋コンクリート四階建ての防火高層商店街の建設が始まり、同年暮れから同三十六年一月にかけて完成、鍛冶町通りの道幅もこれまでの二十メートルから三十メートルになった。同じく田町四つ角の東側の三十メートルにわたって鉄筋コンクリート四階建ての防火高層商店街が鍛冶町とほぼ同じ時期に完成した。一方、駅南工区(第六工区)は住民の反対運動が激しく、一向に進まないため、昭和三十四年度からは五カ年計画で都市改造事業によって行われることになった。駅南工区の一部の駅南地区は都市改造地域となり、さらに中央工区の一部もこの事業に組み入れられて名称が駅周辺地区となった。
 この事業が始まって二年を経過した昭和三十六年三月六日に『広報はままつ』の号外ともいうべき付属版が発行された。これは駅南地区都市計画事業特集として出されたもので、見出しには「駅南を近代的市街地にしよう」、「地域の発展を約束する駅南地帯の都市改造事業」とともに、「一人の反対で進まず 機関区道路の舗装計画」というものさえあった。この特集によると、計画の二十五%しか進んでおらず、移転戸数約千戸のうち、まだ八百六十戸も残っているという。さらに、「駅北のめざましい発展にくらべて駅南のこの牛歩ぶりは、非常に大きな問題です。」と記し、交通上の不便さや環境衛生面でも悪く、市として放任しておくことは出来ないとして駅南住民への協力を呼び掛けた。この事業では駅北口や南口の駅前広場の拡張、駅前幹線街路の旭中田島線の新設、飯田鴨江線の拡幅延長などの工事が行われた。これらは期間内では完了できなかったため、昭和三十八年度、昭和四十四年度と再三変更が行われ、ようやく昭和四十四年度をもって完了した。この事業による移転戸数は千二百二十七戸、街路の築造約十四キロメートル、舗装約四十二キロメートルであった。