【都市計画法 市街化区域 市街化調整区域】
昭和四十年代は高度経済成長期で地域の人口移動が激しくなり、村落・都市人口の過疎・過密問題が大きな社会問題となっていた。人口の都市集中は市街地を無秩序に拡大させることになるため、これを防ぎ、計画的な都市の発展を図るべく、国は昭和四十三年六月十五日に新しい都市計画法を公布(施行は同四十四年六月十四日)した。この法律により市域は市街化区域と市街化調整区域に分けることになった。市街化区域は積極的に市街化を促進させる区域であるが、既に市街地を形成している区域とおおむね十年以内に優先的、かつ計画的に市街化を図る区域の二つがあった。市街化調整区域は当面はつとめて開発を抑え、無秩序な市街化を避ける区域であった。そのため、農地の宅地への転用が制限されるなどの土地利用に規制を加えることになった。このことから利害問題もからんで各地で市街化区域と市街化調整区域の線引きをめぐって賛成・反対の意見が続出した。県土木部が作成した区域区分案によると、浜松市が市街化区域として六千二百ヘクタールを要望したのに対し、五千百ヘクタールに圧縮していた。市では昭和四十六年二月に県の土木部から発表された原案を基に同年三月から四月にかけて市内全域で説明会を開催した。浜松基地滑走路の東側は既成市街地になっていたが、航空上の保安を図るとして県の案では滑走路東端から東へ一キロメートル、南北四百六十五メートルずつ、約八十ヘクタールにわたってこの部分だけが調整区域となり、市街化区域に食い込んでいた。このため関係住民から反対の声が出ていた。また、浜松バイパス周辺は鉄工団地や卸商団地の開発が進行中で、市街化区域に編入すべきとの意見が強かったが、この地域は天竜川下流用水の受益地域に含まれており、市街化区域になると農業的投資としての国営用水事業が実現不可能とのことで調整区域になっていた。さらに、積志地区は全域が調整区域に入っていたが、二俣街道沿いは既成市街化しており、浜松市としても都市計画を推進する上からも街道沿いは市街化区域にしておきたい考えを持っていた。そのほか、多くは市街化区域に指定してほしいという意見が多い反面、市街化区域に入ると農地の固定資産税が宅地並みになり、農業経営が不可能になるとの意見も多く出ていた。市はこれらの意見や要望を勘案して市の都市計画審議会にはかり、市の要望を県に提出した。この後、県の素案がまとまり、七月に市民会館で公聴会を開催した。県の素案は地元の意見を一部取り入れ、航空自衛隊浜松基地東側の萩町、泉町と設置の決まった東名高速道路浜松西インターに近い高丘地区を新たに市街化区域に、市営住宅の建設計画のある数カ所を同じく市街化区域にしたり、またその逆もあった。そして、この時に出された意見を関係機関で調整し、再び市の都市計画審議会にはかって、その結果を県知事に提出、県はこれを基に県案を作成、同年十二月に市民に縦覧、この期間に出された意見を添えて県の都市計画審議会にはかり、そこで出た結論を基に建設大臣の承認を受けて昭和四十七年一月十一日に県の告示として正式に決定された。これによると、浜松市の市街化区域は当初案よりかなり増えて六千四百三十ヘクタール(市内の約四分の一強)、市街化調整区域は一万八千六百二ヘクタールとなった。浜松市の市街化区域と市街化調整区域の概要図とその解説は、昭和四十七年二月十日に発行の『広報はままつ』都市計画線引き特集号として全世帯に配付された。
初の線引きの後、浜松市は市街化区域を東名高速道路から南側、国道一号線(浜松バイパス)より北側を原則として市街化区域にしたいとの考えを持っていたため、修正のための基礎調査を進めていた。しかし、県は市街化区域の増大は最小限度にとどめたいとの考えから調整は難航した。これにより浜松市においては土地区画整理事業を進める浜松医科大学周辺や初生町、工業地として基盤整備をはかる小池町、住居地域として江西地区など七地区、面積では三百六ヘクタールのみが市街化区域となり、浜松市が望んでいた三千六十ヘクタールのわずか十%が編入されたに過ぎなかった。結果的には、昭和五十四年の告示で浜松の市街化区域は六千七百三十六ヘクタールとなった。