佐鳴湖東岸土地区画整理事業

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【佐鳴湖団地 佐鳴台】
 入野村が浜松市に合併したのは昭和三十二年、浜松市は佐鳴湖が都市内水面としては松江市の宍道湖、中国・杭州市の西湖、ドイツのハンブルク市の湖(アルスター湖)などに匹敵するほどの美しさを持っていることに着目、昭和三十七年六月十三日に平山市長を会長とする佐鳴湖周辺開発協議会を発足させた。開発の柱としては水面の利用を図るために中島や船着場の新設、市街地からの便を図るため道路や湖畔の周遊道路の建設、ホテルや旅館、飲食店、土産物屋の建設、根川山公園などをつくるといったものであった。また、蜆塚・入野の両地区は高級住宅地にする計画もあった。観光開発が進まない中、佐鳴湖周辺は都市公園として市が整備し、周辺地域は組合施行の土地区画整理事業により宅地などの開発をする方向が打ち出された。そして、昭和四十年に小藪・蜆塚・入野北・入野南の各土地区画整理組合の設立発起人を選出して準備に取り掛かった。そして各組合間の連絡を密にすることなどのため、昭和四十一年八月に佐鳴湖周辺土地区画整理組合連合会を設立した。しかし、土地区画整理事業で具体的な計画を作成していく過程で、一組合として施行することが最適であるとの考えにより、この四つの組合は昭和四十四年二月に合併(設立認可は同年七月三十一日)し、佐鳴湖東岸土地区画整理組合となった。総面積は百五十二・八ヘクタール、湖に沿った丘陵地帯の斜面は自然保護のため手は付けず、宅地造成の対象は丘陵の東側で、階段状に整備し、三千戸、一・四万人のニュータウンを建設するという計画であった。ここには小・中学校や幼稚園、公園などを設置し、県営住宅の建設や市道の整備も計画された。待望の起工式は昭和四十五年一月十三日、新聞の見出しには「高級住宅街めざしクワ入れ 佐鳴湖東岸区画整理事業」と出た。工事の初期は山を削り、谷を埋めるなど赤い山土が肌を見せたため、自然破壊を心配する声も聞かれ、水害がたびたび発生する事態にも見舞われた。しかし、県下最大の土地区画整理事業と言われた事業は進み、昭和五十三年には工事が終わり、昭和五十四年三月には組合が解散した。これより前の昭和四十五年頃には赤土の目立つ中に住宅が出来始め、昭和四十七年には県営の佐鳴湖団地への入居が始まった。そして同四十八年にはスーパーマーケットが開店、五十一年一月には入野町と分かれて佐鳴台が独立、これまで遠くの入野小学校に通っていた子供たちの不便を解消すべく佐鳴台小学校が開校したのは同五十二年四月のことであった。以後、警察官派出所や郵便局、幼稚園、佐鳴台中学校などができ、一帯は中心街に近く人気の住宅地域として発展していった。

図2-7 建設中の佐鳴台