[総合開発計画の策定]

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 戦後、国や県は総合開発計画を策定して地域の発展のために様々な施策に取り組んできた。昭和四十四年五月になって国は新全国総合開発計画を策定、県は第七次静岡県総合開発計画を国に先立つ同年三月に策定、四月一日から〝美しく、たのしく豊かに住める静岡県〟を目指して計画がスタートした。
 
【総合開発基本構想】
 浜松市は国や県の計画を踏まえ、市の発展方向と役割などを考慮して、これからの市政の主導目標などを決める総合開発基本構想を策定することにした。この構想を立てるために市は浜松市総合開発計画策定委員会(委員長は平山浜松市長、各界から二十五人の委員)をつくり、半年以上にわたる議論を経て、総合開発計画を策定、その内容を昭和四十五年三月三日に発表した。これは昭和六十年を目標にした市の長期ビジョンで、開発政策の三本柱を次のように定めた。
 
 ①人口・経済の拡大基調への積極的対処
 ②都市機能整備の促進
 ③広域都市政策の推進
 
 また、昭和六十年の人口を六十万人と見込み、様々な具体的施策を提案した。昭和四十五年五月八日には浜松市総合開発基本計画を発表、これは同四十五年から五十年までの具体的な事業計画を定めたものであった。この基本構想と基本計画で浜松市は「活力あふれる豊かな市民生活」の実現を目指したのであった。
 
【第二次浜松市総合計画基本構想】
 その後、浜松市を取り巻く情勢は広域市町村圏の設定、東海道線の高架化事業、国立医大の建設、東名浜松西インターの開通などで大きく変わり、また、国の施策も福祉を重く見る方向に変化してきたことなどを考慮して第二次浜松市総合計画基本構想を作成することになった。この構想では市民にアンケートを実施、総合計画策定委員も六十人に増やし、内部体制として計画策定幹事七十二人を任命するなど、多くの市民の声を取り上げることにした。第一回の総合計画策定委員会は昭和四十八年七月六日に発足したが、同年秋には第一次石油ショックにより、日本経済は大打撃を受け、高度経済成長路線は見直しを迫られることになった。このことにより、時代の流れに沿った的確な総合計画を策定することにした。そして、第二次浜松市総合計画基本構想は昭和四十九年十二月の市議会で議決された。また、この構想に基づいた第二次浜松市総合計画の基本計画(昭和五十一年度から五十五年度まで)は同五十一年三月に決まり、同五十一年度予算から財政面の裏付けにより決められた事業が行われていった。第二次浜松市総合計画基本構想では昭和六十年の浜松市の人口を六十万人と見込み、健康で安全な都市建設を目指し、浜松のあるべき方向を次のように定めた。
 
 1、秩序と均衡のとれた土地利用構想を、国・県の諸構想と調整をはかりながら定め、これに基づく都市づくりをすすめる。
 2、都市計画は可能な限りスケールアップして設定し、東海道線高架事業と併せての市街地改造事業並びに生活環境施設整備を進め、健康と安全が保たれる都市づくりをすすめる。
 3、交通情報時代に対応して、広域経済圏構想を軸に西部地域の中心にふさわしい都市づくりをすすめる。
 4、東海道メガロポリスの中間である地理的位置を最大限に活用し、流通機能の集積基地としての都市づくりをすすめる。
 5、本市並びに周辺の豊富な自然環境を活用し、市民に自然と文化への道を開くため、学術文化機能、余暇施設の充実した都市づくりをすすめる。
 
 また、これから目指す都市像として次の五つを掲げた。
 
 1、調和のとれたまちづくり
 2、快適で美しいまちづくり
 3、幸せな市民生活をきずくまちづくり
 4、創造力ある市民を育てるまちづくり
 5、豊かで活力あるまちづくり
 
 これらの基本構想に基づく基本計画の一年目の事業として昭和五十一年度から始まったものを挙げると、市営住宅の建設、し尿処理のために西部衛生工場の建設、中央卸売市場の敷地造成、八幡中学校に情緒障害学級の設置、運動場開放は小中学校全部に、などがある。これからの浜松市政はこのような基本構想と基本計画に基づき、計画的に行われていくことになった。