昭和三十四年四月の市議会議員選挙後初めて開かれた五月の浜松市議会で議長になったのは立石健であった。市議会ではこれまで十日会、月曜会、火曜会、弥生会などの会派があり、政策的な争いより派閥争いに明け暮れていたことから、会派を解消していた。ただ、議長選では旧十日会を中心とした川合小四郎に対し、旧月曜会、旧火曜会、旧弥生会が一本化してドンデン返しの末、旧火曜会の立石が議長に当選するという昔ながらの争いが続いていた。会派がないということは無駄な争いの防止には役立つものの、議会事務局にとっては連絡事務や質問者の選定に困り、議員としては勉強会の開催などが出来ないなど様々な問題点も出てきていた。これまで議長は一年交代という申し合わせがあったため、立石議長の任期が切れる昭和三十五年五月になると議長選をめぐる動きが活発となった。自民党はこれまでの慣例を破り、正副議長を自民党で独占するとの方針をとったが、議長には同党から二人が立候補、また泥仕合が始まった。結局、わずか二票の差で立石健が再選された。このような議長選をめぐる混乱はこの後も長く続いた。
【松和会】
昭和三十九年になってようやく会派結成の動きがあり、五月になって保守派議員三十五人は松和会を結成、これに対し革新系議員十人は革新クラブを、創価学会系の公明政治連盟三人は公明会をそれぞれ結成した。これにより市議会では五年ぶりに会派制が復活、しかし、議長選では松和会内部で三派に分かれて泥仕合となり、会期を一日延期してようやく議長が決まるという醜態を演じた。保守が結集した松和会が発足早々に見せた派閥抗争は市議会の運営に影を投げかけた。昭和四十年代に入っても松和会は市議会で絶対多数を占めていたが、会には幾つかの会派があり、揉め事が絶えなかった。しかし、執行機関(市長)から提案される条例案や予算案はそのほとんどが原案どおり可決、成立していた。
【常任委員会 特別委員会】
浜松市議会には常任委員会と特別委員会が設けられている。昭和二十六年、同三十八年、同四十八年の常任委員会と特別委員会の設置状況は次のようである。特別委員会の名称からは当時市や議会がどの部門に力を入れていたかが分かる。
昭和二十六年 常任委員会 総務 教育民生 商工 農業水産 土木 保安 建設 公営事業
特別委員会 市庁舎建設 鉄道高架促進 東海道線国鉄電化促進 工場誘致
競馬場設置 国県道改良促進 屠場設置
昭和三十八年 常任委員会 総務企業 文教厚生 産業経済 建設消防
特別委員会 国鉄現線高架化促進 国道一号線バイパス促進 東名高速道路
昭和四十八年 常任委員会 総務交通 厚生水道 産業経済 建設 文教消防
特別委員会 都市再開発高架化促進 浜松地域開発 医療対策 市庁舎整備
このうち、昭和三十八年に出来た三つの特別委員会では次のような取り組みをしていた。国鉄現線高架化事業で、国鉄は京都・静岡とともに浜松も実施計画に乗せていたが、鉄道利用債の地元消化対策が課題となっていた。国道一号線バイパス建設では、過去三年間にわたる運動で国の新道路五カ年計画に編入の見通しがつき、昭和三十九年度から工事に着手するよう運動を始めた。東名高速道路の建設では建設省で大体のコースは決めたが、インターチェンジの建設場所や細部のコースについては少しでも地元の利益になるような設計を建設省に促していた。