[公明選挙から明るく正しい選挙へ]

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昭和三十年代、浜松市選挙管理委員会は公明選挙推進のために、小・中・高校生を対象に「公明選挙」「正しい選挙」などの文字を入れたポスターの募集を行い、入選作品を展示したり、婦人を対象に公明選挙話し合いの会などを開催していた。昭和三十五年十月十六日には市教委と共催で公明選挙推進のために青年弁論大会を開催した。そして、同選管は同年十一月二十日の衆議院議員総選挙を前に、市役所と浜松駅前に公明選挙を呼び掛ける横断幕や懸垂幕を掲げた。また、『広報はままつ』では選挙の三悪として「棄権」、「買収」、「事前運動」を挙げたり、「戸別訪問は違反」などと、公明選挙推進に力を入れた。浜松市の公明選挙推進運動は従来市と選管のみで実施してきたが、自治会連合会、婦人連盟、婦人団体連絡協議会、青年会など市民各層を網羅した公明選挙推進協議会(協議会委員三十八人、推進委員四百六十三人)を昭和三十六年九月に発足させ、様々な活動を展開した。これは『広報はままつ』によると「最近の選挙の実情は、おびただしい選挙違反の続発で、公明選挙どこ吹く風といつた現状ですが、このなげかわしい世相を市民みんなの力で改めよう」と始まったのであった。ところが、昭和三十九年十一月に公明党が発足すると、これまで使用してきた公明選挙の名称を変更することになった。そして、昭和四十年三月から明るく正しい選挙(推進母体は明るく正しい選挙推進協議会)となり、浜松でも同年六月の参議院議員選挙からこの名称で運動が行われた。同四十九年には名称がさらに簡素化されて明るい選挙(推進母体は明るい選挙推進協議会)という名称となり、これまでと同様な活動を続けた。