航空自衛隊は、第一次防衛力整備計画(昭和三十三年四月~同三十六年三月)から第二次防衛力整備計画(昭和三十七年四月~同四十二年三月)の初頭にかけて、防空部隊としての骨幹組織を概成した。作戦を行う航空総隊(航空自衛隊の航空実戦部隊)には三個方面隊と偵察部隊を置き、作戦支援部隊としては輸送航空団、航空救難群等を編成した。また、技術航空部隊としては、飛行教育集団と術科教育本部を整備した(『航空自衛隊50年史』)。浜松には飛行教育集団の第一航空団(『浜松市史』四 第三章第二節に既述)や術科教育本部とその下に二つの学校が置かれた。
【第一術科学校 第二術科学校 術科教育 浜松南基地 術科教育本部】
昭和三十三年八月浜松基地は南・北に分かれ、同三十四年六月一日浜松南基地に設置されていた整備学校、通信学校を第一術科学校、第二術科学校とそれぞれ改称した。航空自衛隊や海上自衛隊で行う教育の一分野を術科教育といい、航空自衛隊では飛行教育を除く技術教育を指す(『国防用語辞典』朝雲新聞社)。第一術科学校は、通信・電子・武装関係を除く航空機の整備に必要な教育訓練を行う学校で、第二術科学校は、通信・電子(レーダー)、航空管制、航法関係器材、火器管制等に関係ある技術及び運用教育等を行っていた。昭和三十六年初頭の浜松南基地の概要を見ていこう。一、航空自衛隊で最大の人数(三千六百人)を擁する。二、代表的技術教育基地で、整備綜合実習場、通信器材講堂等、高度に近代化された技術教育施設を有する。三、航空自衛隊が保有する全ての機種を有する等であった。第一・第二術科学校を除く部隊では、教材整備隊(航空自衛隊各部隊の教育に必要な教材の製作及び修理をする所)、救難教育隊(ヘリコプターの操縦、救難訓練等を行い、人命救助・捜索連絡等を行う)、浜松基地業務群(浜松南基地の全隊員の日常生活に安らかな夢を与える食事・入浴等から俸給の支払い、警備、広報活動、厚生等一切の管理業務)、警務分遣隊(警察機関に当たる)が展開していた(『新編史料編六』 二自衛隊 史料2)。術科教育の学校が二つもあった事情もあり、同三十七年十月一日同基地にその強化を目的とした術科教育本部が新設された(『静岡新聞』昭和三十七年八月二十五日付)。この日基地業務群が廃止され、業務は第一術科学校に編合された(航空自衛隊浜松南基地『はままつ』年表より)。