図2-10 災害派遣に活躍する救難航空隊
昭和三十二年度に続発したジェット機事故対策として同三十三年三月浜松基地に臨時救難航空隊が編成され、同年十月救難航空隊と改称された。この時、救難教育をする救難教育隊が新設されたが、編成から一年半程の間に見違える程の発達ぶりを見せた。救難航空隊はそれ以来逐次救難分遣隊を千歳(昭和三十三年 北海道)、小牧(昭和三十四年 愛知)基地に展開させた。この間自衛隊はもちろん民間人の救出等に出動した回数は四十回余りで、約六十人の貴重な人命を救った(『航空自衛隊50年史』資料編上、『静岡新聞』昭和三十四年十月十五日付)。こうした活動は航空自衛隊にとって新威力となっていた(『静岡新聞』昭和三十四年七月二十四日付)。殊に、同三十四年九月中部地方を襲った伊勢湾台風に際し、ヘリコプターによる早期被災者救出、遠隔地からの救援、物資輸送、状況偵察、連絡、防疫剤の散布などに当たるほか、地上部隊は飛行支援、道路啓開、被災家屋の整理に活躍した。ヘリコプター延べ五百四十八機、C46輸送機延べ七十九機、T6練習機延べ八機を投入した。この災害の救援、復旧作業は自衛隊始まって以来の大規模なものになった(『日本の防衛』昭和三十七年刊)。これは災害派遣の代表的な例であろう。翌三十五年八月十六号台風による静岡県島田地方の災害救援にも大活躍をした。八月十三日から十六日まで四日間にわたって連日出動し、物資輸送、偵察飛行など合わせて約五十回飛行し食糧、衣類、日用品等約三十トンを運搬、豪雨により地上の輸送路を絶たれた被災地へ空からの救援を行った。
同隊は元来自衛隊航空機の遭難などのための教育を行うところだったが、台風災害や船舶遭難事故が発生した場合、県知事より要請があれば教育を一時中止して災害派遣に出動している(『静岡新聞』昭和三十五年九月六日付)。そのため同隊は四カ月間百時間という決められた期間内の教育にしばしば支障を来たすという。しかし、教育に支障が起こるとはいえ、災害派遣は実地教育に役立つので、いつでも出動できる体勢を整えていた。
【救難教育隊】
昭和三十七年七月十二日の新聞に「愛の空輸」として取り上げられた記事を紹介しよう。市内のある病院に交通事故で重傷を負い、手当てを受けたが出血の止まらない患者がいて、名古屋大学医学部附属病院へ搬送する必要があり、通常の手段では到底間に合わず困っていた。病院は浜松中央警察署を仲立ちとして航空自衛隊浜松南基地に救援を要請した。そこで救難航空隊のヘリコプターは浜松―名古屋間を空輸し、患者は大手術を受けることが出来た。
昭和三十五年七月一日本部が浜松から入間(埼玉県)基地に移動した(『自衛隊十年史』)。これは救難部隊の本部は日本の中央地域に設けた方が都合が良いからであった(『静岡新聞』昭和三十五年六月二十五日付)。翌三十六年七月十五日救難航空隊は入間基地で航空救難群として改称編成され、救難指揮所及び全国規模の救難通信網も整備された(『航空自衛隊50年史』)。本部移動後も浜松南基地には救難教育隊が残り、ヘリコプター飛行、水難救助訓練等従来通りの活動を行った(『静岡新聞』昭和三十五年六月二十五日付)。