昭和三十年に浜松基地で音楽クラブが発足、これが同三十二年に浜松基地音楽隊となった。この基地の音楽隊は同三十三年に音楽隊となり、同年七月に立川基地に移動した。その後、同三十五年には浜松北基地にスカイ・ヤンガースが、同三十八年二月一日には基地音楽隊が創設された。翌年二月一周年を迎えた頃には隊員三十名、楽器もスーザホーンなど二十八個が揃い、演奏回数も三十二回を数えた。一方、浜松南基地には同三十六年に基地音楽部が発足し、同四十一年五月に浜松音楽隊が編成された(『航空自衛隊50年史』、『三方原』第38号)。
その頃の同隊の活動の一、二例を紹介すると、同四十年三月二十日「春の音楽祭」に出演した。この会は隊員の日頃の疲れを癒やす目的で『三方原』(防衛庁共済組合)の主催で開かれ、音楽隊のほか「チェッカーブラザーズ」、「ウイングスラッガーズ」がジャズ、マーチなど特色を生かして競演した。ちょうどこの日はフライトのない土曜日とあって、団司令やパイロットも若い隊員と一緒に盛んに拍手を送っていた(『三方原』第53号)。同四十四年七月三十日~八月一日までの三日間、浜松南基地音楽隊(浜松音楽隊)は、防衛庁広報テレビ番組「マーチとともに」に出演のため、浜名湖の風光明媚な舘山寺の国民宿舎前、瀬戸大橋等において東洋シネマのスタッフ等による録画撮影を受けた。撮影は基地音楽隊が主役の出演とあって、皆緊張していたようであった。放送は同八月二十四日午後四時半からフジTVを通じて全国に放送された。同隊は八月十四日基地納涼大会にも出演した(『はまな』第67号)。
【中部航空音楽隊】
浜松音楽隊は昭和四十八年三月第一回定期演奏会を開くまでになった。そして同隊は同五十一年十月一日に中部航空方面隊(司令部は入間基地)司令官直轄部隊に所属、名称は中部航空音楽隊となった。これによりその活動範囲が広くなった。この日三沢(青森県)、春日(福岡県)の音楽隊も北部・西部各航空音楽隊として、それぞれ各方面隊司令官直轄部隊として編成された。音楽隊の役割は自衛隊の儀式等での演奏、隊員の士気の振作、広報と言われる。自衛隊において広報の重要性が高まるとともに、音楽隊においても演奏の質の高さが求められるようになった(『航空自衛隊50年史』)。
図2-12 浜松駅前をパレードする基地音楽隊
【プロムナードコンサート】
同隊の創設記念演奏会は会場に入場できないファンが多数出るほどの人気を得た。二年目の一年間に自衛隊内部・外部の行事、パレードなどに百五十八回の出張演奏を続けてきており、レベル的に高い評価を受けていた。活動範囲も北は宮城県から南は兵庫県に至る一都二府二十三県に広がったが、地元浜松市では毎年春に行われる定期演奏会と五月の浜松まつりパレードぐらいしか市民との交流がなかった。そこで、浜松市民との触れ合いを求めて昭和五十三年五月二十七日に第一回プロムナードコンサートを有楽街で行い、歩行者天国でにぎわう買い物客の関心を集めた。プロムナードコンサートは六・八・十・十二月と偶数月の第四土曜日、午後二時半から一時間コンサートを開いていく計画であったが(『静岡新聞』昭和五十三年五月二十八日付)、会場の私有地に建物が出来ることになり、同年末で中断された。しかし、翌年七月七日鍛冶町の丸井浜松店の屋上を会場に再開された。