昭和三十年(一九五五)十二月、浜松基地に航空団が設置された。これはジェット戦闘機の訓練を行う部隊であったが、浜松基地は滑走路やガソリン貯蔵所などの設備がないため、築城に移った。浜松での受け入れ体制が整った同三十一年八月から航空団は浜松に移動、同九月から航空団による本格的な訓練が始まった。十月からは新たな航空団(第二航空団)も浜松で訓練を開始した。これにより、基地は手狭となり、昭和三十三年八月一日、新たに浜松北基地が開設され、第一航空団(第二航空団は同三十二年に千歳に移動)はここに移り、訓練を開始した。当時同団で使われたジェット機は、F86F、T33であった(表2―3)。F86Fは航空自衛隊の主力戦闘機で、元は米空軍の戦闘機で朝鮮戦争末期に大活躍し、自由主義陣営諸国に広く供与され、日本・カナダ等でライセンス生産された。日本では昭和三十一年から同三十四年の間に三百機生産した。優れた火器管制装置と卓越した機体性能とによって、当時としては画期的な空戦性能を発揮した(『国防用語辞典』)。T33も米軍が使用していたもので、ジェット練習機である。
昭和三十四年中、第一航空団では若干の航空事故があったものの訓練は円滑に進んだが、同三十五年は航空事故が頻発して、同団は同三十二年に続き二回目の危機に見舞われた。それを団司令の下、基地一丸となって飛行安全に取り組み、同三十六年七月から四年間、前人未踏の無事故八万時間につながっていったと言われる。記録樹立の翌日の新聞は、飛行八万時間はF86Fの最高速度、時速千百五十キロで飛行した場合だと地球と月の間を百十五往復、地球の周りを二千百五十六周したことになると報じた(『静岡新聞』昭和四十年八月十日付)。同団には、一応ジェット機を操縦できるようになった「パイロット一年生」たちが配属され、本格的な操縦訓練の後第一線の戦闘基地に送り込まれる訳だが、航空自衛隊の飛行機事故は、パイロットが一人前に育つまでの養成期間に最も多く、それだけに仕上げコースの同団の責任は重く、神経をすり減らすという(『静岡新聞』昭和四十年二月二十五日付)。
その後、再び無事故は昭和四十年十一月以来同四十五年十一月二十七日まで九万五千四百十三時間余に達した(『静岡新聞』昭和四十五年十一月二十八日付)。
第一航空団は昭和三十年に全国で初めての航空団として誕生、昭和四十一年九月に行われた卒業式で二十四名に卒業証書を授与、この十年間に千名を超すパイロットを全国の基地に巣立たせた。この千名を送り出すまでには、航空大事故二十回と殉職者十五名の尊い犠牲を出すなど並大抵の苦労ではなかった(『三方原』第71号)。
表2-3 浜松北基地のジェット機数の推移 (単位:機)
新聞掲載日 | 機種 | 計 | |
T33ジェット 練習機 | F86Fジェット 戦闘機 | ||
昭和37年10月1日 | 70 | 15 | 85 |
昭和40年2月25日 | 63 | 34 | 97 |
昭和41年5月21日 | 43 | 37 | 80 |
昭和45年7月14日 | 38 | 37 | 75 |