[ブルーインパルスと東京オリンピック・万博]

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【ブルーインパルス アクロバット飛行】
 ブルーインパルス(ニックネーム)は、昭和三十五年四月十六日浜松北基地の第一航空団に所属する空中機動研究班(同年八月一日特別飛行研究班、同四十年戦技研究班と改称)として正式に発足した。正式というのは、実際には二年程前からチーム誕生の伏線となるような動きがあったからであった。同団の一部の教官パイロットが、主力戦闘機F86Fで編隊アクロバットの訓練を行っていたのである。同三十三年十月十九日浜松北基地の開庁記念日に三機編隊で十五分間の飛行を行い、それまで日本ではジェット機のアクロバット飛行はなかったので、集まった二万人の観衆を驚かせた。翌年十二月、来日した米空軍のアクロバットチーム・サンダーバーズの演技の影響もあって、航空自衛隊でもアクロバットチームを編成しようとする機運が一気に高まった。昭和三十五年一月同団で七人編成のチームで本格的なアクロバットの訓練を開始した。そして、同年三月四日ブルーインパルスとしての初の公式展示飛行が、浜松北基地で披露された。この年は防衛大学校卒業式・入間での米軍三軍記念日等全国各地の自衛隊基地や記念行事に十三回の公式展示飛行を実施し、次第にその存在が知られていった。
 ブルーインパルスの存在が広く世間一般に周知されたのは、昭和三十九年十月十日東京オリンピック開会式の行われていた国立競技場上空にカラー・スモークを使用して、見事に五輪マークを描き、大会を盛り上げた時である。テレビのカラー放映もあって、その映像は見る人の脳裏に刻み込まれ、深い感動を与えた。それから六年後の昭和四十五年大阪千里丘陵で開かれた万国博覧会では三回(開会式・ジャパンデー・閉会式)の展示飛行を実施、EXPO'70等の煙文字を会場上空に描き、博覧会成功に花を添えた。