【交通戦争】
静岡県の自動車台数(貨物用・乗合用・乗用・特殊用途用・二輪)の推移を見ると、昭和二十九年(一九五四)四万九千台、同三十四年十万台、同四十三年五十万台、同四十九年には百万台を超え、わずか二十年ほどの間に約二十倍(『静岡県警察史』下巻)に急増した。自動車が急速に普及したことがよく分かる。一方、交通事故数の推移を見る(第六節 表2―40「静岡県と浜松中央・東署管内の交通事故件数、死者・傷者数」参照)と、昭和三十五年から同四十五年までの十一年間に死者は増えていないものの、事故数・傷者数は約三倍となった。ただ、国レベルでは昭和四十一年の死者の数が、日清戦争の死者の数を上回り〝交通戦争〟の言葉が生まれた。
【交通信号機】
浜松市で事故が急増したのは、国道一号線が市内中心部を貫通している、二輪車両の台数が多い、道路が狭い、路上駐車が多い等の理由が挙げられた(『浜松警察の百年』)。また、交通安全施設もほとんど無に等しい状態であった。昭和三十四年当初は市内の交通信号機は七カ所に過ぎなかったが、同三十四年九月には国道連尺町角・姫街道追分角などの四カ所に設置され、全部で十一カ所になった(『広報はままつ』同年九月二十一日号)。
【飲酒運転追放】
自動車や交通事故の急増に対して、昭和三十七年県は静岡県交通安全対策協議会を結成し、交通安全運動を展開した。県警本部も組織を改編して交通部門を整備していった。浜松中央・東の両警察署は取締指導・運転者教育・交通安全施設の整備という交通行政の三本柱を各種の工夫を重ねて推進していったが、他方、市民の間にも次第に交通事故についての意識が高まり、自主防衛と協力体制が整えられた。その例としては浜松市町を住みよくする会所属の交通指導員の誕生、交通事故防止推進本部の設置、企業や高校・PTA連合会の交通安全会結成、酒類提供業者の浜松市飲酒運転追放協力会結成などが挙げられる(『浜松警察の百年』)。このように徐々にではあるが交通事故防止対策は整えられてきたが、自動車の急激な増加に対策が追い付かないのが実情であった。