[風俗事犯・売春事犯の検挙]

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 風俗営業という言葉は昭和二十三年制定の風俗営業取締法に法律用語として登場した。当初、これは待合、料理店、カフェーなど遊興・飲食をさせる営業、キャバレー、ダンスホールなどダンスをさせる営業、玉突場、まあじゃん屋など射幸心をそそる虞のある遊技をさせる営業の三種類に限られていた。営業の開始は公安委員会の許可を要し、かつ、都道府県が営業の場所・時間等を条例で定めるとした(『日本史大事典』5 平凡社)。その後風俗営業から除外されたものがある反面、新たに付け加えられたものもあった。昭和三十年代問題とされた営業の一つに深夜喫茶店があり、営業が深夜に及ぶものが多く、青少年に対して著しい弊害を与えた。昭和三十九年頃、浜松市内に風俗営業取締法の対象となる業者はバー百二軒、料理店三百八十五軒、簡易料理店(露店商を含む)二百二十九軒、キャバレー三軒、ダンスホール二軒、そのほか貸し席や各種遊技場等合計約千五百軒あった。同年八月一日改正法や県の関係条例が施行され、風俗事犯の温床となっていた深夜喫茶店に対する規制を強くした。中央署は法施行と同時に連日午後十一時から二時間指導取締を実施、無許可営業店等二軒を検挙、時間外営業三百四十軒を文書または口頭で警告した。八月下旬以後違反者は激減したが、一部にバーは軽食室、貸席は下宿・貸間に偽装して営業を続けている店もあったようだ。
 
【売春防止法】
 昭和三十三年四月売春防止法が施行されたが、売春婦、買春者自身や売春婦寄生者の処罰等が抜けていて、ザル法との批判もあった。同法で最も厳罰としているのは管理売春(売春をさせる業)であった(『戦後史大事典』三省堂)。中央署の昭和三十六年度の『犯罪白書』では同年度売春事犯で五十人を検挙したという。同三十五年頃まではステッキガール(電話一本で男性と同伴する女性、一般にはコールガールとも呼ばれた)の居る街のあることが知られた浜松市だが、同三十六年度に暴力団の資金源になった悪質なひもの一掃に乗り出したので、ひもに泣く婦女子はやや減少したが、目立った成果を上げられなかった。そこで同四十一年四月から六月までを特に売春事犯等取締強化月間とし、管理売春(特に年少者使用)、人身売買、暴力団の関係する事犯に重点をおいて、悪質者の一斉検挙を実施した。この期間中、六十八件、七十二人を検挙し、また、四十一年中の検挙は百三十五件、百四十二人に及んだ。その後も定期や随時の取り締まりを実施したが、根絶することは出来なかった(『浜松警察の百年』)。