[暴力団の壊滅作戦と解散]

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【暴力団 服部組 国領屋】
 昭和四十年頃の浜松は、発展する商工業都市として全国から注目されていたが、その反面ピンクの町とか、犯罪の町などという有り難くない異名を取っており、暴力事件も頻発していた。そうした事件や犯罪の裏には暴力団の暗躍があった。当時市内に的屋(てきや)(祭礼・縁日または繁華街の路上等で客を集め、品物を売る商人。香具師(やし))霊岸島桝屋一家服部組と博徒国領屋が勢力を二分していた。服部組は、遠州地方の露店、パチンコ店等を手中に縄張り代と称し業者から金を脅し取っていた。国領屋は新興成金や中小企業の経営者等素人を賭博に誘って大金を巻き上げていた。暴力団は、組織維持のためあらゆる不法資金源に目を付け、暴威を振るって市民に被害を与えていた。被害者等は、警察から被害届を出すように説得されても、後難を恐れ泣き寝入りするばかりで事件にならなかった。
 
【暴力団壊滅作戦 暴力追放市民協力会 暴力団解散】
 その頃警察庁の指令で全国的に暴力団壊滅作戦が展開されていたが、当市でもそうした動きが出てきた。同四十年八月中央署に服部組恐喝、所得税法違反特捜本部が設置された。これは捜査員が恐喝され畏怖する業者をようやく説得して事件としたものであった。同年九月九日五代目組長笠原敏郎等幹部九人を逮捕するとマスコミも事件を大きく取り上げ報道した。これを契機に市民からの協力も得られるようになった。同年十二月六日浜松市議会でも暴力追放を決議する等市民の暴力追放体制も整えられてきた。翌年一月十八日国領屋鍛冶町一家七代目組長藤田亀太郎を逮捕したが、当時彼は浜松市議会議員で文教厚生委員長の職にあったから驚きである。暴力団が市民の中に浸透していた実態がよく分かる。藤田の逮捕で国領屋の組織は大揺れとなった。市民の反暴力団の動きはさらに高まり、県下に先懸け三月三日浜松市暴力追放市民協力会が発足し、四月二十九日市民五千人の参加で市中パレードを行った。警察の強力な取り締まりにより六月服部組、八月国領屋がそれぞれ解散。組織暴力団は一応解散した形になった。しかしながら、その後服部組の流れをくむ者が浜松桝屋として再建を図り、国領屋も組織再建のため関西の広域暴力団山口組の配下に入り、勢力挽回を目指している状況があった(『新編史料編六』 二自衛隊 史料13・15、『浜松警察の百年』、『あらゆる暴力を追放して明るく住みよい町づくり』平成三年刊)。