【ポンプ場 終末処理場】
昭和三十五年(一九六〇)一月海老塚町地内で下水道建設が開始された。下水道は使った汚水を人工的・機械的に排水し、その水を衛生的に処理していく施設であるが、低地で雨が降るたびに水浸しになっている地域には、人工的な排水施設としての下水道が必要であった。この事業は昭和三十四年度から十カ年計画で始まり、区域は東は馬込川、西は名残町を起点に姫街道沿いの亀山町、北は柳通り、南は東海道線によって囲まれる中央部で、面積は四百六十一ヘクタール(昭和三十六年に四百四十一ヘクタールに変更)、計画区域の人口は八万九千人であった。この区域の南東部は特に排水の悪い低地帯であったため、馬込川や新川へ放水するポンプ場を二つ建設した。同年一月着工したが、工事は新幹線の工事の関係で延期され、元浜幹線を先に建設することにした。このように計画は時々変更された。下水道の終末処理場は瓜内町に設置され、昭和三十七年八月に生し尿の処理を開始した。市の下水道の排水系統は、各地域からの下水を次第に低地帯へと集め、大雨の時には下水幹線が川の近くを通るところではその雨水を川へ放水、汚水だけを瓜内町の下水道終末処理場へ送って処理する仕組みであった。
【湛水対策】
市の市街地は勾配が少ないので途中にポンプ場をつくって、下水を中継しないといけなかった。ポンプ場は大雨の時に雨水を一時的に排水する災害防除の役割とともに下水中継という重要な働きもした(『広報はままつ』昭和四十年九月二十日号)。昭和四十一年に馬込町の下水中継ポンプ場(中ポンプ場)と龍禅寺町の南ポンプ場の運転が開始された。これにより低地の湛水(たんすい)対策(河川に囲まれた低い土地では大雨が降ると水が排水されず水没するので、ポンプで強制的に水を排水する)としても効果が得られた。また、同四十一年十月元浜排水区から瓜内終末処理場までの下水道本管がつながり、同年十一月十五日に下水道事業の貫通修祓式と通水式が盛大に挙行された(『広報はままつ』昭和四十一年八月二十日号)。