[天竜川西縁水防組合の解散と浜松市水防団の誕生]

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【天竜川西縁水防組合】
 昭和二十七年(一九五二)八月一日かつての河輪村外十五ケ町村水防組合は、天竜川西縁水防組合と改称された(『浜松市水防団のあゆみ』)。水防団は定期的に水防演習を実施し、年々繰り返される風水害に備えていた。静岡県主催の昭和三十四年度天竜川連合水防演習が七月二十八日磐田郡豊田村池田地内の天竜川左岸堤防で行われた。天竜川西縁水防組合・同東縁水防組合に天竜市水防組合、浜松市都田水防組合に加え、建設省磐田工事事務所、県警本部機動隊、県防災協会、自衛隊、気象台等が特別参加し、総員五百五十人が参加した。現場には浜松市消防団をはじめ関係者約五千人が詰め掛け演習を見守った。水防団員は長年受け継がれてきた水防工法を行った。まず俵に砂を詰める土俵作りから作業は開始され、箕および蛇籠作り等の防水資材が作られた。続いて木流し工、むしろ張工と弱い個所に対する補強作業が行われ、蛇籠に石を入れて並べ護岸する立籠工等が行われた(『静岡新聞』昭和三十四年七月二十九日付)。
 
【浜松市自治水防団】
 昭和三十五年浜松市自治水防団が結成され(『広報はままつ』昭和三十八年六月二十日号)、市内には八水防団(河輪・五島・中ノ町・白脇・笠井・芳川・飯田・都田)が成立し、連合水防演習を行っていた(『静岡新聞』昭和三十七年七月十九日付)。
 
【浜松市水防団】
 前述の天竜川西縁水防組合は、昭和三十八年三月三十一日に発展的に解散、同四月一日に浜松市水防団が設立され、水防の任務を果たすことになった。水防団の定員は四百四十三名、浜松市水防団と八分団(一分団五十五人)が設置された。八分団は先の八つである。笠井・中ノ町・飯田・芳川・河輪の各分団は地区内の天竜川およびその支流、五島分団は地区内の天竜川・芳川・馬込川とその支流および海岸、白脇分団は地区内の馬込川・芳川とその支流および海岸、都田分団は都田川とその支流がそれぞれの管轄区であった。
 水防団の役割は、市の災害救助隊等に協力して、洪水・高潮に際し随時区内の河川・海岸堤防等の巡視、災害防ぎょ、避難指導及び被害をより少なくするように努め、住民の安全を守ることである(『広報はままつ』昭和三十八年六月二十日号)。
 なお、この後、入野分団(昭和五十二年)と伊佐見分団(同五十六年)が設立された。