戦後の第一次ベビーブーム(出生数の急増)は昭和二十二年から同二十四年にかけてで、以後もしばらく多くの赤ちゃんが生まれた。この頃に生まれた子供たちが小学校に入るようになると浜松市や近郊の学校では教室不足が深刻となった。『広報はままつ』の昭和三十四年一月二十日号に昭和二十五年度からの「年度別入学者数」(表2―5)が発表された。これによると入学者数のピークは昭和二十九年度で、八千人を超えた。従って、昭和三十四年度が小学校全体の児童数のピークとなり、中学校は同三十七年度がピークとなった。表2―6と表2―7は昭和三十四年度に児童数千五百人を超えた小学校、同三十七年度に生徒数千人を超えた中学校の状況を示したものである。児童・生徒数がこのように多くなった学校は〝マンモス校〟と呼ばれたが、このようになると、教室の不足はもちろん、トイレ、手洗い場、運動場、保健室、給食室などの設備の面でも多くの問題が出てきた。この対策として教育委員会は学校の増築や分校の建設(後に独立校に昇格)、統合、校区の再編などに当たった。昭和三十三年度には鴨江小学校や北星中学校など十七校の増改築が、同三十四年度には十三校で増改築工事が行われた。この中には笠井・広沢・相生・新津・与進・神久呂・和田の各小学校の木造給食室の新・増・改築、東小学校の講堂、天竜中学校の体育館も含まれていた。以後、増改築は毎年のように進んでいった。
表2-5 小学校の年度別入学者数
年度 | 入学者数 | 生年 |
昭和25年度 | 5544人 | 18年生れ |
26年度 | 5331人 | 19年〃 |
27年度 | 4122人 | 20年〃 |
28年度 | 5704人 | 21年〃 |
29年度 | 8257人 | 22年〃 |
30年度 | 7935人 | 23年〃 |
31年度 | 7682人 | 24年〃 |
32年度 | 6879人 | 25年〃 |
33年度 | 6394人 | 26年〃 |
34年度 | 5946人 | 27年〃 |
表2-6 昭和34年度、児童数1500人を超えた小学校
順 | 学校名 | 児童数 |
1 | 相 生小学校 | 2120人 |
2 | 元 城小学校 | 2071人 |
3 | 竜禅寺小学校 | 1911人 |
4 | 積 志小学校 | 1870人 |
5 | 追 分小学校 | 1717人 |
6 | 萩 丘小学校 | 1690人 |
7 | 北 小学校 | 1608人 |
8 | 曳 馬小学校 | 1565人 |
昭和三十四年度より作成
表2-7 昭和37年度、生徒数1000人を超えた中学校
順 | 学校名 | 生徒数 |
1 | 西部中学校 | 1938人 |
2 | 中部中学校 | 1907人 |
3 | 南部中学校 | 1904人 |
4 | 北部中学校 | 1328人 |
5 | 北星中学校 | 1305人 |
6 | 八幡中学校 | 1186人 |
7 | 曳馬中学校 | 1123人 |
8 | 東部中学校 | 1114人 |
9 | 蜆塚中学校 | 1045人 |
1962より作成
戦後に制定された学校教育法の施行規則では小中学校の一学級当たりの定員は五十人以下を標準としていたが、浜松市内外の多くの学級では五十人をはるかに超えていた。昭和三十二年度においてさえ、竜禅寺小学校では平均して一学級五十八人、元城、相生の両小学校は同五十七人、八幡中学校では一年生と三年生は五十九人を超え、中部中学校の一・二年生は五十五人を超えていた。児童数がピークとなった昭和三十四年度の相生小学校では五年生が一学級平均五十九・一人、二年生も五十八人を超えていた。また、昭和三十七年度の南部中学校では三年生が五十四人を超え、一年生は五十三人、二年生は五十一人を超えていた。一学級がこのような人数になると、まさに〝すし詰め状態〟に等しく、教室の後ろまで机と腰掛けで埋め尽くされ、教室から廊下に出るのも容易ではない有り様であった。
生徒数が特に多かった中部中学校では、昭和三十二年から蜆塚に蜆塚教室を建設、昭和三十五年四月に蜆塚中学校となった。当時の生徒数は五百七十六名、これに対して分離した中部中学校の生徒数は千六百八十一名もおり、まだ市内で最多の生徒数であった。
【ドーナツ化現象】
昭和三十七年度は中学校の生徒数が最多となった年、この四月にはこれまでの東部中学校の丸塚分校が独立して丸塚中学校に、北部中学校の住吉分校が高台中学校として新発足した。これにより市立の中学校は二十四校となった。また、萩丘小学校の北分校が葵が丘小学校となった。高度経済成長が進展していた昭和三十七年頃から浜松の郊外では土地区画整理事業による住宅団地づくりが盛んになった。これを受けて昭和四十年頃から人口のドーナツ化現象が出始め、これに伴って周辺部で児童・生徒が増加することになった。学校名を挙げると、萩丘・積志・曳馬・蒲・白脇などの各小学校である。この後、萩丘小学校の児童数の増加が続き、昭和四十五年四月には泉小学校が分離して開校、同じく積志小学校から大瀬小学校が分離独立した。また、大規模な住宅団地が建設された海岸部には昭和四十六年四月に遠州浜小学校が五島小学校より独立、翌四十七年四月には砂丘小学校が白脇小学校から分離して開校した。これにより市立の小学校は五十二校となった。