[体育館とプールの建設]

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【体育館 講堂】
 戦後しばらくの間、ほとんどの小中学校には体育館がなかった。雨が降れば保健体育の時間は教科書での学習となったり、読書の時間などに充てられた。一旦雨が降れば排水の悪い学校の運動場では二、三日は入れないこともあり、中には庄内中学校のように「雨が降るとグランドヘは一週間くらい入れず…」(『浜松市立庄内中学校創立三十周年記念誌』)という学校さえあった。この地域の学校で最も早い時期の体育館建設は篠原村立篠原中学校で、昭和三十三年十月に完成した。鉄筋コンクリート建て三百坪、完全防音装置、舞台もある講堂兼体育館で(図2―16)、講堂として使う場合は七百名を収容することが出来た。バスケットボールのバックボードもつき、マット運動や跳び箱などの運動も大勢で出来るものであった。総工費は一千八百万円、一村一中学校ならではの施設で、他校を羨ましがらせた。浅間小学校に体育館兼講堂が完成したのは昭和三十九年二月十七日のことであった。この体育館は浜松市で初めての鉄骨軽構造の建築であった。建設委員長を務めた三宅正二は「浅間だより」に「……内部施設も各位の御寄贈により充分に整えられ、これからは雨の日も風の日も子供達は喜々としてこの建物の中で体操をし、のびやかに育って体位向上のために一役を持ち、又入学式、卒業式、学芸会、映画会、学区の敬老会等に於ても大いに講堂として集会に役立つ事を思いますと本当にこの完成は有意義であったと思います。」と記している。同年の三月には湖東中学枚の体育館が完成した。

図2-16 篠原中学校の体育館

 元城小学校では昭和四十年に入っても体育館(講堂)がなく、学校で最も大切な行事である卒業式を中庭で行っていた。昭和三十四年度から五年間校長を務めた鈴木良は元城小学校創立百年記念文集『もとしろ』に「…一週間も前から、天気のことが心配でなりません。『どうかよい天気になってくれよ。』と、神かけて祈る気持ちで、毎年この日を迎えました。もしも雨にでもなったら大変です。三百五十名ちかい卒業生と、その父兄の方々にはいっていただく会場がないからです。なんとしても、卒業式のすむまでは『雨よ降ってくれるな。』と願ったものです。」と記している。その後任の村井佐継も、空っ風を防ぐために柵を設けててん幕を張って式場を作ったが、風を防ぐことが出来ず手渡されたばかりの卒業証書が大空に舞い上がったこと、みぞれが降り出して、来賓の中から「気のどくだなあ!」という声が起きたと記している。元城小学校の体育館兼講堂が完成したのは昭和四十四年四月のことであった。体育館(講堂)の建設が進まなかったのは全額公費での建設が出来ず、多くが保護者・地域住民の寄付によらなければ出来なかったのである。昭和三十九年度以降同四十七年度までには、二十数校(附属小・中学校を含む)の体育館(兼講堂)が出来たが、このうち同四十一年に北星中学校に出来た体育館兼講堂には立派な舞台が付き、文化発表会や儀式の開催に十分な施設となった。翌四十二年に完成した曳馬中学校の体育館の舞台には演劇用の電動の幕が設置され人々を驚かせた。ただ、市内の五十校近くは昭和五十年代に入ってようやく体育館が完成することになる(表2―8)。体育館の建設が進まなかったのは市が校舎(教室)の増改築に追われていたことと、負担金の多さであった。昭和四十四年に完成した西部中学校の体育館は運動器具と内部の施設も入れると約三千五百万円、そのうち国と市で約千五百万円、生徒が積み立ててきたお金が約四百三十万円、残りの約千五百万円は学区内の十八ある自治会内に居住する世帯の寄付金で調達することになった。この体育館建設への寄付依頼の全文が『新編史料編六』 三教育 史料13に出ている。この時代の体育館やプールの建設は西部中学校の体育館建設と同様に多額の資金をPTAや住民が負担しないと建設できない状況下にあり、反対者が多くいると不可能となるなど、どこの学校でも出来るものではなかった。
 
【プール】
 プールは体育館と比べて比較的安価で出来たため、市内のほとんどの小中学校では昭和三十年代に完成し、一部は昭和四十年代の建設となった。比較的早い時期でのプールは浜名郡篠原村の篠原中学枚のもので、昭和三十二年七月に完成したプールは小中学校では珍しい五十メートルで七コース、翌年には日本水連の公認プールとなるなど本格的なもので、以後同校の水泳部は県や東海大会で優勝するなど、プールの竣工は生徒に大きなプレゼントとなった。昭和三十七年七月には和田小学校と東小学校のプールが完成、いずれも徒渉池付きで和田小は三百二十七万円、東小は三百二十五万円、浜松市からは両校とも七十万円の補助金が出されたが、それ以外はPTA負担であった。この二校のプールの完成により、市内の四十五小学校のうち三十二校が、二十四中学校のうち十五校がプールを持つことになり、県下の都市では最も普及率が高くなった。昭和四十四年になってプールが建設された北星中学校では資金不足の中、防衛庁から五百四十万円の補助金を獲得、周辺住民も利用できる住民プールという名目で完成させた。このように体育館に比べて早く出来たのは、これまで水泳練習に使用してきた河川(天竜川・都田川・伊佐地川など)が汚れてきたことや、河川での水泳が常に危険を伴っていたことなどが挙げられる。
 
表2-8 浜松市の小・中学校の体育館(講堂)とプールの設置状況
昭和35年度
初め
昭和45年度
初め
昭和55年度
初め
平成元年度
初め
小学校全校数
42
50
59
63
体育館(講堂)
19
32
57
63
プール
26
45
59
63
中学校全校数
20
24
27
31
体育館(講堂)
8
16
25
31
プール
13
21
25
31
出典:『昭和35年度浜松市教育委員会資料』、『教育要覧』昭和45年度・55年度・平成元年度より作成
注:浜松市立の学校のみ、分校を含む。
注:体育館は講堂(屋内運動場)を含む。

 
 学校のプールは昭和五十年代に入って大きく変わることになる。昭和五十五年六月十九日に落成式を迎えた中部中学校のプールは市内の既存の公立中学校では最後に出来たものであったが、材質はコンクリートではなく、全溶接型アルミ合金製の五十メートルプールであった。このほか、新設中学校のプールは五十メートルとなり、ステンレスやFRP(繊維強化プラスチック)などの材質になっていった。