【スポーツテスト 体力づくり】
東京オリンピック前の昭和三十六年六月にスポーツ振興法が制定され、国や地方公共団体の役割が示された。各種の運動施設の設置や体育指導委員制度、運動能力テストなど様々な面でスポーツの振興が図られるようになった。学校においては昭和四十年になってスポーツテストが行われるようになった。このテストは握力や垂直とびなどの体力診断テストと五十メートル走、走り幅跳び、持久走などの運動能力テストの二つがあり、学校行事の一環として盛大に行われた。これは春と秋の二回にわたって行われたこともあり、個人別のカードに記録し、次のテストヘ向けての目標を立てさせた。体力や運動能力の向上のために、各学校では様々な取り組みが行われた。小学校では授業の合間に外に出て運動をする業間体操、中学校では六時間目の授業終了後、体力づくりと称して体操、ダッシュ、鉄棒、攀登(はんとう)棒(登り棒)などを十分から十五分程度毎日行った。スポーツテストの結果は学校、浜松市、静岡県、国の平均値が毎年発表されるので、学校としてもこれを上回るべく毎日の体力づくりに力を入れた。
【肥満児教室】
高度経済成長に伴って食生活が豊かになり、栄養過多と運動不足から太り過ぎの子供たちが増え始めたのは昭和四十年頃からである。肥満の程度はローレル指数〔体重(キロ)を身長(センチ)の三乗で割り、十の七乗を掛けたもの〕で表され、この指数が百六十を超えると肥満児と判定され、昭和四十四年には市内に約三百四十人を数えていた。これらの子供たちは体育の授業に参加しないこともあり、見学と称してお茶を濁していたが、これがまた肥満につながっていった。これを解決しようと浜松市教育委員会は全国で初めての肥満児教室を昭和四十四年五月から九月までと、十月から二月までの二期にわたって各六十名を対象に体操、マット、トランポリン、ゲームなどを指導していった。「『こんなにもふとった子が……。』初めて肥満児教室の児童を見たとき、わたしたちは一瞬おどろいた。」との感想を持った指導者は三カ月、四カ月たつうちに「『なんとなく、ほっそりしたじゃないか』『スマートになったな』と話しがでるようになってきた」と講評に記している(『浜松市の体操、肥満児教室』)。この肥満児教室と合わせて体操の苦手な子供たち向けの体操教室も開催、一年間で合計三百名の児童が修了、その後も長く続いた。