【完全給食 ミルク給食】
昭和三十五年度において市立の四十二小学校(二分校を含む)のうち、完全給食(週五日)を実施していたのは三十三校、ミルク給食(週三回)は一校であった。同じく二十中学校のうち完全給食はわずかに三校(週五回二校、三回一校)、副食給食は六校、後の十一校はミルクさえなかった。給食未実施校は主に農村部の学校であった。北庄内小学校での完全給食実施は昭和四十年とやや遅かったが、その理由の一つは、米や野菜の生産が盛んで、わざわざお金を出してまで給食を行う必要はないというものであったという。ただ、給食開始は子供たちだけでなく、おかず作りに苦労していた家族も大歓迎となった。また、当時はまだ貧富の差があり、貧しい家の子供たちはお弁当の中身を見られないように蓋で隠しながら食べていたが、このようなこともなくなり、皆が同じ物を食べ、栄養のバランスも良かったので学校給食の実施校は増えていった。そして、昭和四十六年度には浜松市立の全ての小学校で完全給食が実施された。一方、中学校では昭和三十年代に完全給食となったのは八幡・曳馬など五校に過ぎず、同四十七年度になっても二十四校中完全給食は十一校、補食一校、残りはミルク給食のみであった。
昭和三十年代半ば頃から給食用の燃料はまき・コークスなどからプロパンガスに、同四十年代初め頃にパンの箱は木箱からポリプロピレン製となった。また、同じ頃これまでの脱脂粉乳から牛乳(混入)に切り換える学校が増えていった。昭和四十四年頃からは献立の多様化を図るため、パンの代わりにソフト麺が一カ月一、二回程度出るようになった。