高度経済成長が本格化した昭和三十六年度には浜松市の中学校の卒業生の高校進学率は定時制高校も含めると五十九・三%になった。その後の同四十一年度には七十%を超え、八十%を超えたのは同四十四年度だった(表2―11)。『浜松市史』四でも触れたが、進学率の向上に合う高校の定員増がなされなかったため、県の西部、特に天竜川以西の受験競争は激烈で、受験のための補習が花盛りとなった。昭和三十年代後半に、浜松の中学校では一カ月五百円の補習代を徴収し、テキスト代や印刷代、教員の夕飯代などに充てていた。昭和三十七年七月二十九日付の『静岡新聞』によると、浜松市内の二十四の中学校は夏休みには二十四、五日間を補習に充てていた。中には成績順にクラス編成をして、入試には心配のない上位の三クラスは午前中で終わり、あと一息という下位の三クラスは午後まで汗だくになって補習をしていた学校もあったという。二学期からは学校により夜の八時前後までの補習が続いたが、さすがに様々な問題が発生し、昭和四十一年頃から教職員組合が先頭に立って補習期間の短縮や全廃を申し合わせる動きが出た。こうして、昭和四十年代の半ば頃には学校での課外による補習は終わることになった。
【東海学院予備校】
ただ、中学浪人の数も多かったため、後に代議士となった竹本孫一が昭和三十四年四月に東海学院予備校を設立、一期生は百人近くにも及んだ。竹本は同三十五年度の入学生に「皆さん入学おめでとう、失敗した事を喜ぶべきです。人生は長い、一度ぐらいの失敗でくよ/\するな、今日は成功えの第一歩です。今の気持を忘れないで頑張って下さい。」と励ましたという(『東海学院のあゆみ』)。東海学院は後に大学受験科なども持つ予備校となった。
表2-11 浜松市の中学校卒業生の進路状況
年度 | 卒業生総数 (人) | 進学者 | 無職者 | 就職者 | |||
人数 | % | 人数 | % | 人数 | % | ||
昭和33年度 | 5,359 | 2,482(129) | 46.3 | 192 | 3.6 | 2,685 | 50.1 |
34年度 | 5,322 | 2,651(137) | 49.8 | 164 | 3.1 | 2,644 | 49.6 |
35年度 | 5,310 | 2,618(163) | 49.3 | 257 | 4.8 | 2,435 | 45.9 |
36年度 | 5,802 | 3,442(152) | 59.3 | 125 | 2.2 | 2,235 | 38.5 |
37年度 | 8,383 | 4,928(189) | 58.7 | 283 | 3.4 | 3,197 | 38.1 |
38年度 | 7,864 | 5,091(196) | 64.7 | 237 | 3.0 | 2,698 | 34.3 |
39年度 | 7,869 | 4,962(185) | 63.1 | 351 | 4.5 | 2,556 | 32.5 |
40年度 | 7,139 | 4,843(177) | 67.8 | 478 | 6.7 | 1,818 | 25.5 |
41年度 | 7,711 | 5,695(181) | 73.9 | 479 | 6.2 | 1,537 | 19.9 |
42年度 | 7,216 | 5,525(159) | 76.6 | 470 | 6.5 | 1,221 | 16.9 |
43年度 | 6,825 | 5,384(149) | 78.9 | 442 | 6.5 | 999 | 14.6 |
44年度 | 6,617 | 5,422(172) | 82.0 | 411 | 6.2 | 784 | 11.8 |
45年度 | 6,936 | 5,740(187) | 82.8 | 498 | 7.2 | 698 | 10.1 |
46年度 | 6,671 | 5,561(166) | 83.4 | 528 | 7.9 | 582 | 8.7 |
47年度 | 6,763 | 5,832(173) | 86.2 | 433 | 6.4 | 498 | 7.4 |
48年度 | 7,165 | 6,138(250) | 85.7 | 567 | 7.9 | 460 | 6.4 |
49年度 | 6,738 | 5,950(200) | 88.3 | 467 | 6.9 | 321 | 4.8 |
50年度 | 6,811 | 6,075(141) | 89.2 | 443 | 6.5 | 293 | 4.3 |
51年度 | 6,898 | 6,208(202) | 90.0 | 433 | 6.3 | 257 | 3.7 |
52年度 | 6,742 | 6,146(118) | 91.7 | 354 | 5.3 | 242 | 3.6 |
53年度 | 7,165 | 6,573(76) | 90.7 | 402 | 5.6 | 190 | 2.7 |
54年度 | 7,441 | 6,728(129) | 90.4 | 466 | 6.3 | 247 | 3.3 |
55年度 | 7,365 | 6,762(138) | 91.8 | 388 | 5.3 | 215 | 2.9 |
56年度 | 6,194 | 5,738(121) | 92.6 | 287 | 4.6 | 169 | 2.7 |
57年度 | 7,989 | 7,249(130) | 90.7 | 425 | 5.3 | 315 | 3.9 |
58年度 | 8,222 | 7,762(170) | 94.4 | 159 | 1.9 | 301 | 3.7 |
59年度 | 8,083 | 7,653(144) | 94.7 | 165 | 2.0 | 265 | 3.3 |
注:昭和39年度までは統計書の記載に従い「浜松市立公立中学校卒業生の進路状況」であり、昭和40年度以降は、「浜松市における(国公私立)中学校の進路状況」である。
注:進学者欄の()内は、就職して進学した者で、進学者数の内数となっている。
注:無職者数は、昭和50年度以降教育訓練機関等入学者数を含む。
【高校入試】
就職は高度経済成長期ゆえ中卒者にとっては「わが世の春」、求人は求職の数倍に達した。また、理美容学校や自動車の整備学校、企業内の学校、職業訓練校などに進む者もいた。
この頃の高校入試は国語・社会・数学・理科・音楽・美術・保健体育・技術家庭・英語の九科目の筆記試験であった。この九教科の試験は生徒にとっては大きな負担で、また、入試問題も難解なものが多く、補習実施の原因ともなっていた。これを受けて静岡県教育委員会はこれまでの入試制度を根本的に変えるべく委員会を設置、これを受けて昭和四十三年三月に来年度の高校入試選抜方法を発表した。これによると、点数至上主義や補習などによって生徒の心身の負担が増大しているとし、中学校教育の正常化のために調査書(内申書)を重視する入試にするとした。高校の募集人員のおおむね八十%は学力検査や面接などで著しい不良の評定のない限り中学校が提出した調査書で決めるというものであった。二つ目は学力検査の科目を国・社・数・理・英の五教科とし、保健体育の実技を行うというものであった。この体育重視により調査書にスポーツテストの記録を記入することとなった。この高校入試の新制度は昭和四十四年三月から実施され、これを受けて補習は終わりを告げたのであった。この調査書重視の入試は長く続くことになる。