[幼稚園]

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【二年保育 三年保育】
 昭和三十八年一月に可美村立可美幼稚園の二年保育実施の要望書(『新編史料編六』 三教育 史料11)が村長あてに提出された。同幼稚園は一年保育のため、二年、三年の保育を希望する家庭は私立幼稚園に入園せざるを得ないこと、一年保育は極めて不完全であり、保育の完璧を期し難いとの理由であった。これを受けて可美村は同年四月から二年保育を開始した。浜松や近郊の私立幼稚園では昭和二十年代から二年保育が始まっており、松城幼稚園では昭和三十年に三年保育を開始、蒲幼稚園は昭和四十一年から三年保育を始め、中には四年保育を始めた幼稚園もあった。浜松市立の幼稚園では中ノ町幼稚園が昭和三十二年から二年保育を開始、同三十四年には橋爪幼稚園がこれに続いた。しかし、三方原と豊岡の両幼稚園が二年保育を開始したのは昭和四十六年で、私立幼稚園に比べて大変遅かった。
 
【私立幼稚園】
 昭和三十四年五月から同四十七年までに設置された市立の幼稚園は和地幼稚園(これ以前に私立、村立の時代があった。)のみであった。同時期に設置された私立の幼稚園は中田島、海の星鷺の宮、志都呂、あすなろ、遠州浜、湖東の六園で、いずれも大規模な住宅団地が造成された地区に開園している。昭和三十年代から四十年代にかけては多くの私立幼稚園で園舎の改築が行われ、その多くは鉄筋コンクリート二~三階建ての美しい建物に変わった。室内にはテレビを設置したり、中にはプールをつくるところも出てきた。私立幼稚園では絵画や音楽などにも力を入れ、ハーモニカによる教育は昭和三十年代に入って行われるようになった。青葉幼稚園では昭和三十三年六月からハーモニカを取り入れ、翌年には三百八十名の園児全員によるハーモニカの大合奏(日の丸の旗、チューリップなど六曲)が出来るようになった。また、幾つかの幼稚園では鼓隊や鼓笛隊を持つようになった。さらに、昭和三十年代後半からは楽器会社と提携して、オルガンやピアノなどを教える幼稚園も出始めた。中には、男の先生を採用し、ちびっ子サッカーを始めた幼稚園もあった。四十年代に入ると芋掘り遠足やお泊まり保育が各園で始まり、生活発表会は市民会館など大きなホールを使って行うところも出てきた。
 
【通園バス 市立幼稚園】
 私立幼稚園は園児の送迎に小型のバスを使用しているところが多いが、これは昭和三十年代の初め頃に始まったようだ。富塚幼稚園での通園バス導入は昭和三十四年であるが、既にその頃には二、三の幼稚園がバスを運行して園児の獲得に乗り出していたという(富塚学園『創立30周年記念誌』)。昭和三十六年には蒲・赤門・あけぼのなどの幼稚園でもバスでの送迎を開始している。私立幼稚園の三年保育とバス通園、音楽・絵画などの教室は保護者にとっては魅力で、これにより市立幼稚園では一時的に園児の減少傾向が出てくることになる。これに対抗するわけではないが、市立幼稚園にもいろいろな施設が出来るようになった。比較的早い時期にプールが完成したのは昭和三十五年の中ノ町幼稚園と同三十六年の大久保・与進幼稚園、ただ、多くは四十年代に入ってからであった。このほか、昭和三十年代後半から昭和四十年代半ばにかけて遊戯室、小鳥小屋、大型滑り台などができ、航空自衛隊の基地に近い幼稚園では防音工事が行われた。昭和四十二年度の市立幼稚園は二十七園を数えたが、その全ての園長は近くの小中学校の校長が兼務していた。この兼務園長は園によっては平成の時代まで続いた。

図2-17 赤門幼稚園の通園馬車