【高校生の急増】
昭和三十三年度の西遠学区(天竜川以西)の中学校卒業生のうち、公立高校への進学希望者数は三千六十九人、これに対し定員は二千四百五十人、私学への進学希望者数は千百三十九人に対し、定員は九百十人となっているのでいずれも定員をはるかにオーバーしていた。このうち私学は定員の一割余を追加して合格させれば希望者はほぼ入学できるが、公立高校は一割増しでもまだ三百人余名が不合格になる見込みであった。このようなことは数年来続いていたようで、これが夜まで続く補習を続けさせていた。このようなことを受け、浜松市PTA連絡協議会や市議会、市教委などは高校の定員増や県立高校の設置運動を始めた。このような中、浜松市への東洋大学付属高校の設置運動が一部で行われたが、県立高校の誘致に努力している中では好ましくないという声が出てきた。これにより、昭和三十四年九月に至って大学側は浜松への設置を断念することになった。昭和三十五年に入ると浜松へ県立高校を新設しようとする運動が高まり、同年三月十六日には浜松市議会において県立高等学校新設に関する要望決議案が全会一致で可決された。これを受けて浜松市は同年四月十三日に静岡県知事と教育長に促進方を要望し、設置運動を開始した。当初は女子高校の設置をうたっていたが男女共学の高校となり、設置場所は三方原、富塚、長上、新津地区などが候補に挙がっていた。県は可美村や篠原村の浜松市への合併を見越し、駅南でこれらの地区に近い新津地区への設置を要望し、昭和三十六年十一月になって新津地区の米津町への建設が決定、高校生が急増する昭和三十八年四月の開校が決まった。このため浜松市は用地買収費二千万円を計上し、高校(浜松南高等学校)建設を後押ししていった。
一方、県立高校一校では急増する高校生には対処できないことが分かり、私立高校の誘致にも動き出した。この頃平山博三市長は千葉県にある柏日体高校を視察しているが、その感想として「私が目のあたりにした光景は実に驚異に感じる程のものでした。現代の教育のなかにもこのような厳格な規律と奥ゆかしい躾に意を注いだ立派な教育方法に接したのであります。(中略)私はこのような学校をどうしても浜松に作っていただきたい一心で、一面識もない米本(卯吉)理事長さんをお尋ねいたしたのであります。」(浜松日体高等学校『十年の歩み』)と記している。昭和三十七年六月には平山市長と日本体育大学との間で非公式な話が持たれている。この後市議会や教育委員会、市PTA連絡協議会と誘致について話し合いに入った。そして、同年七月二十三日には浜松市議会全員協議会で日体大付属高校の誘致を全会一致で可決するといったスピードぶりであった。地元の私学協会も私立高校の設立を了承、これを受けて学校法人日本体育会(日本体育大学などを経営する学校法人)と浜松市は昭和三十八年四月の開校を期すことに決定した。敷地は八月に浜松市長の示した半田町に決定し、同月二十五日には浜松日体高等学校設置認可申請が提出されるに至った。そして、十月には翌年四月の開校を目指して校舎の建設が開始された。
【浜松南高等学校 浜松日体高等学校】
浜松南高等学校は第一期工事として鉄筋コンクリート四階建ての校舎一棟を建設し、七学級三百五十人を、浜松日体高等学校は同じく第一期工事で鉄筋コンクリート四階建ての校舎一棟を建設、五学級二百五十人の入学生を迎えることになった。こうして浜松南高校は昭和三十八年四月八日に第一回の入学式を挙行、普通科二百七十三名、商業科二百十六名を迎えた。浜松日体高校も同日に入学式を挙行、百九十一名を迎えた。両高校とも入学式は同日で、平山市長は浜松日体高校へ、皆川教育長が浜松市長代理として浜松南高校へ来賓として出席しているが、これは平山市長が浜松日体高校の設立にいかに尽力したかを物語るものと言えよう。浜松日体高校の第二代校長の西野淑は前記の『十年の歩み』に「本校は平山市長さんと米本理事長さんのお二方の熱情の固まりとして誕生した…」と記しているのを見ても分かる。そして、一戸公哉校長の「積志力行 清節篤行」の実践指針による教育を開始、特色ある校風樹立に努めていった。浜松南高校も「最善を尽くそう」の校訓の下、職員生徒が一丸となってより良い伝統と校風樹立に力を入れていった。
これら二高校の新設でも昭和三十八年度は千人以上の浪人が発生することになるため、県立高校は一校あたり二学級(百人)を増やすことになり、私立高校にも学級増の要請がなされた。浜松北高校の場合、従来の定員は三百五十名であったが、昭和三十八年度は生徒急増の第一年に当たることから定員を四百五十名と一挙に百名増とし、さらに十四名を合格させたので最終的には四百六十四名が合格となった。他の学校も同様な方法で高校生の急増期に備えたのであった。